見出し画像

【歌詞】Mother's Face/上北健【考察】

シンガーソングライター「上北健」さんの『Mother's Face』の歌詞を考察してみました。

この楽曲を初めて聞いた時、ある神様の存在を思い出したので、そちらについても記載できたらな、と思います。

頭~1 番歌詞考察:「私」の人物像


世界の顔を追い求める。
たどってゆく深みの果てに、
私を裸にしてしまう、どうしようもない優しさを。
(引用元:Mother's Face (Official Video)コメント欄歌詞引用)


まるで何かの物語の序章のような歌詞で始まるド頭。

ここでまず注目は「世界の顔」という歌詞。どことなく楽曲のタイトルと関係性を感じずにはいられないその歌詞。

実際、こちらについては上北さん本人が「世界」の部分に形や含みを持たせる為に「Mother」という単語を使った事を語っています。つまり「世界の顔」=楽曲タイトル『Mother's Face』であると捉えてよいと思われます。

そして「私」という人物はその「世界の顔」を追い求めているようです。


「裸にしてしまう」というのは、自分の全てをさらけ出す、という表現に捉える事も出来る筈です。「私」が思わず全てをさらけ出してしまう程の「優しさ」で満ちてる「世界の顔」とは一体どんなものなのでしょう。


まだ未明。
昨夜の涙雨が流した、埃と記憶。
さまよった路地に、飢えた生き物。
絵画にしようと色はない。
(引用元:Mother's Face (Official Video)コメント欄歌詞引用)


1番Aメロ。
まだ「未明」という歌詞から見るに、今はまだ暗い夜の模様。

「昨夜の涙雨が流した、埃と記憶。」という歌詞から見るに、どうやら「私」の身に何か涙を流すような苦い経験が起きた事も想像できます。
「さまよった路地」や「飢えた生き物」という歌詞からも、「私」を取り巻く現状が良いものではないらしい事が伝わってきます。

しかし、どことなくただ悪い状況に振り回されるというよりは、そこから脱出する術を模索しようとしているかのような、力強い意思、悔しさも含まれているように思います。

「さまよった路地」という歌詞からは、何かを探していく中で「道にさまよった様」が、
「飢えた生き物」という歌詞からは、今の現状を打破する力を欲する「私」の姿も感じられます。

「私」は「世界の顔」を追い求めています。ということは、ここで「私」が路に待った理由は「世界の顔」にあると推測できます。そうすれば、「私」が欲しがっている力もこの「世界の顔」に近づく為のものだと考えられるでしょう。

しかし、「世界」だなんて壮大な相手の「顔」です。早々見つかるものではない筈。

「絵画にしようと色はない。」というのは、そんな「私」の存在そのものを表現しているのでしょう。
「(人目を惹きつけるような)絵にもならないような、その程度の弱小的存在」。「世界の顔」を見つけられるわけがないと揶揄されているのかもしれません。


振り払って走る。振り払って走る。
振り払って走る。振り払って。
(引用元:Mother's Face (Official Video)コメント欄歌詞引用)


続く1番Bメロの歌詞からも、まるで今のこの現状から脱出しようと、必死にもがいてるような様子がうかがえます。

ですが、何を「振り払って」いるのか。ここからは、まだそれを考察する事はできなさそうです。


私、世界の顔を追い求め、
逆光に眩まされたんだ。
恐ろしい笑みと冷たい目のあれが、
本物だなんて信じない。
(引用元:Mother's Face (Official Video)コメント欄歌詞引用)


1番サビ前半の歌詞。「私」は一度「世界の顔」の姿を見たらしい事が歌われています。
「逆光に眩まされた」とも歌っており、どうやら「世界の顔」というのは眩い輝きを放っているものの模様。

けれど、その下では「恐ろしい笑みと冷たい目」と、輝きとは反対の印象を受ける歌詞が歌われています。
これはどういうことなのか。

ここで注目なのが、前半最後の「本物だなんて信じない」という歌詞。
どうやら「私」は「恐ろしい笑みと冷たい目」をもった「世界の顔」が本物である事を信じたくないと思っているようなのです。

推測ですが、この「逆光」と「恐ろしい笑みと冷たい目」というのは、時系列が違う出来事なのではないのでしょうか。

人は明るく輝くものには、思わず心惹かれる生き物です。つまり「逆光」というのは、「私」が「世界の顔」を追い求めるきっかけとなった瞬間に目にし、「恐ろしい笑みと冷たい目」というのは、追い求める最中で目にする事になった「世界の顔」なのではないか。

そして続くサビ後半。


世界の顔を追い求める。
たどってゆく深みの果てに、
私を裸にしてしまう、どうしようもない優しさを。
(引用元:Mother's Face (Official Video)コメント欄歌詞引用)


ド頭と同じ歌詞ですね。物語の序章のように感じたのは、サビの一部分を切り取って歌っていたからかもしれませんね。

しかし前半の歌詞の考察と含めて考えると、新たな光景も見えてきそうです。

しかし前半の歌詞の考察と含めて考えると、新たな光景も見えてきそうです。
特に「私を裸にしてしまう」という歌詞。
人が本気を出す事を「一肌脱ぐ」という場合もありますし、裸=肌を晒す、と捉えると、「私」がいつか見た眩い「世界の顔」を見つける為に本気になり始めた、という風に捉えられる筈。

「世界の顔」を追い求める為、新たに覚悟を決めた「私」の強い意思。それが、1番で歌われている事なのでしょう。

こうして考えると1番Aメロの「まだ未明」という歌詞は、「私」自身がまだ本気ではなかった、全力の覚醒をしていなかった、といった風に捉える事ができるかもしれませんね。


2番~大サビ手前:憧憬


天井の火。
同じように掴もうとして灼かれた手は、
引き寄せてみたかったのかもしれない。
瞳を交換できる、その誰か。
(引用元:Mother's Face (Official Video)コメント欄歌詞引用)


2番Aメロ。
ここでは、1番Aメロで歌われた内容を補うものが詰め込まれていると思われます。

「天井の火」を「同じように掴もうとして灼かれた手」。
これはきっと「私」の事を指していると思われます。

「天井」という低い位置にある「火」は、一見すれば誰にでも簡単に手を届かせる場所にあります。実際「同じように」という歌詞からは、「私」以外に誰かが火を掴んだらしい光景が想像できます。

しかしだからと言って不用意に触れれば、火傷を負う。
つまり痛い目を見るという事です。どこか1番の「昨夜の涙雨が流した、埃と記憶。」と通ずるものを覚えませんか。

さらに「引き寄せてみたかったのかもしれない」と「火」に触った理由を語る歌詞は、「世界の顔」を追い求める「私」の行動と似通るものがあります。
ここから推測するに、この「火」というのが「世界の顔」なのだと思われます。「世界の顔」に触れようとして痛い目を見た、結果が1番Aメロの現状なのでしょう。

そして、「瞳を交換できる、その誰か」というのが、「私」と「同じように」火を掴んだ相手なのだと思われます。

「私」は「世界の顔」の放つ輝きに目を眩まされ、その顔を見る事ができなかった存在。だからこそ、それを見る事ができる「目(瞳)」をきっと欲しがっている筈。
「火」を掴めたという事は、「世界の顔」を「誰か」は見れたという事。「私」はそんな「誰か」のようになろうとして、失敗してしまったのでしょう。


目に映るものはひとつの見方でしかなくて
心の数と同じだけ、ひしめいているんだろう。
泡のように増えては弾ける
この世界への疑いを、
振り払って走る。振り払って走る。
振り払って走る。振り払って。
(引用元:Mother's Face (Official Video)コメント欄歌詞引用)


Bメロから、大サビ手前の歌詞まで。
この2つは大きな繋がりがあると思われたので、まとめて考察していこうと思います。

ここでは、「私」が「世界の顔」に纏わる手がかりを手にしたシーンが歌われていると思われます。

頭の「目」というのは、「私」自身の目を指していると推測できます。
どうやら「私」は、自分の「目に映る」光景が、あくまでも自分自身から見たものであり、世界の全てを見れているわけではない、という風に気づいたようです。

「世界」とは広大な存在。
故に、人一人の小さな目で見渡すには、限度がある。つまり、今「私」に見えている「世界の顔」というのは、あくまで「私」から見えている光景であり、他人からしたら全く別の光景が見えてる可能性もあるのです。
続く歌詞の「心の数と同じだけ、ひしめている」というのは、人の数だけ物の見方がある、という事を歌っているのでしょう。

ここで私は、この「世界の顔」というのは、「憧憬」を表しているものなのではないか、という印象を受けました。

つまりは「憧れ」です。
もっと言えば「夢」。幼い頃、あぁなりたい、こうなりたい、と思った将来への願望や理想といった、そういうもの。

しかし、それらを叶えられるのは、いつだってほんの一握りの才をもった人間だけです。

この「私」はそういった「憧憬」を追いかける人間なのではないのでしょうか。
眩い程の憧れを受けた何かになろうと、またはその頂点を極めようとして、しかし「私」自身に才はなく、打ちのめされてしまった人間。さすれば、2番Aメロの「誰か」は、そんな「私」と真逆の才がある人間だったから「世界の顔」を見る事ができた、憧憬を叶える事ができた、という風に捉える事ができます。

しかし、それでも胸に抱いてしまった憧れを止める事はできない。
「世界の顔」を「私」が追い求めるのは、そんな「憧憬」を叶える為なのでしょう。

さらに、1番Bメロではわからなかった「振り払う何か」の正体が、「この世界への疑い」である事も判明しています。

それは、「憧憬」を追いかける中で見てきた冷たい「世界の顔」に惑わされず、自分が信じる「世界の顔」を求めて走り続ける。そんな揺らぎない「私」の決意や覚悟の現れなのではないのでしょうか。


大サビ:どうしようもない「眩さ」


私、世界の顔を追い求め、
逆光に眩まされたんだ。
恐ろしい笑みと冷たい目のあれが、
本物だなんて信じない。
世界の顔を追い求める。
たどってゆく深みの果てに、
私を裸にしてしまう、どうしようもない優しさを。
私を裸にしてしまう、どうしようもない優しさを。
(引用元:Mother's Face (Official Video)コメント欄歌詞引用)


大サビは最後の繰り返しを除けば、1番のサビと全く同じ歌詞です。

ですが、今までの考察を含めて考えると、1番とはまた違った意味あいを持ったサビにも見えてきます。

1番では「私」の願望に聞こえた、「本物だなんて信じない」という歌詞も「私」自身の揺らぎや迷いが晴れた今、それは願望ではなく決意の言葉に聞こえてくる気がします。

「本物だなんて信じない」だから、いつか見た眩い「世界の顔(憧憬)」を追い求める――、といった風に。

冷たい「世界の顔」もあるけれど、眩い「世界の顔」もある事を知っている。
「どうしようもない優しさ」というのは、そんな「眩さ」を知るが故に憧れを諦めきれない「私」の現状を指しているのかもしれません。


終わり:世界の神を前に裸になった「アメノウズメ」

以上が、『Mother's Face』の歌詞考察です。

導入でも書きましたが、この曲を初めて聴いた時、私の頭の中にはある神様の存在が浮かびました。それが「アメノウズメ」です。

日本神話に出てくる女神であり、日本最古の踊り子ともされている神様です。「天岩戸神話」と言ったら、ピンとくる方もるかもしれません。スサノオノミコトのせいで、天岩戸に引きこもってしまったアマテラスを引っぱり出そうと神々が奮闘する神話です。

彼女はその際に、アマテラスを引っぱり出す為に一役買った女神となっています。アマテラスの為に裸をさらして踊り、皆の笑いを生んだ結果、それにつられて出て来たアマテラスを他の神々はひっぱり出すのです。

神様の事なので、人とは価値観が違うかもしれませんが、大勢の前で裸になるというのは、なかなかにハードルの高い所業の筈。しかし、アマテラスの為に彼女は裸になり踊る。

そのシーンがふと、「私を裸にしてしまう」という歌詞と結びついたのです。
「天井の火」という、どこか空高くいいる太陽を連想できる歌詞や、全体的に和の雰囲気が漂う旋律やMVもまた、このシーンを連想した理由かも。

同じ女神と言えど、世界を照らす太陽神のアマテラスと単なる踊り子なアメノウズメとでは、立場は違った事でしょう。ならば、同じ女神でありながら浴びる注目の差などに嫉妬心を抱いていたっておかしくはない筈です。

でもそれすら超えるような尊敬や畏怖、太陽というこの世界になくてはならない、世界の中心とも言えるような神への不快思いがあってもおかしくはない。
そしてそれが、彼女を裸にさせてまで躍らせた理由だとしたら、どことなくこの歌の雰囲気と被る気がしたのです。

また調べて知ったのですが、アメノウズメは「芸事の神様」でもあるそう。なんだか「憧憬」の単語に深く繋がるようにも思います。
踊りや唄、そういった芸事というのもまた、才能、といったものに悩まされ、葛藤する世界の筈ですから。


以上。
長い考察を最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

もしご共感頂けましたらイイネやコメントをくださると、とても嬉しく思います。


記事を読んでくださり、ありがとうございます!もしこの記事が貴方の心に響くような事があれば、サポートをしていただけますと嬉しいです。 いただいたサポートはライター・創作活動の費用として、大切に使わせていただきます。