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「続ける」ことの本当の価値

「1000日間の修行が終わる前日、999日目の夜寝る前に急に不安を感じました。これまでは修行を嫌だと感じたことはなかったのに、明日になったら1000日目の達成のためだけに義務感で行ってしまうのではないかと。
私は1000日を達成するために修行をはじめたわけではないのだから」

この言葉を聞いたとき、続ける苦悩の本質をはじめて言語化できた。

大阿闍梨の修行とは比較にならないほど小さな記録ではあるけれど、私も一時期noteの連続更新が500を超えた頃、「noteを書く」という行為が惰性になることが一番怖かったからだ。

はじめは純粋な気持ちで挑戦したことも、月日が積み重なり、記録としての価値が出てくると途端に1つ1つの価値ではなく「積み重ねた中のひとつ」にしか見えなくなってくる。どんなに記録は関係ないと思っても、周りの期待に応えなければというプレッシャーも伴ってくる。

でも一番苦しいのは続けること自体ではなく、「続けることを苦労だと思ってしまっていること」である。

周りにすごいと言われ、期待もかけられているときに、義務感ではなく純粋に自分がやりたいという動機で続けられるか。

本当にすごい記録を続ける人は、この壁を超えた人なのだろうと思う。

冒頭の言葉は、大阿闍梨・塩沼良潤和尚が菅野の100勝祝いに寄せたものである。

この動画を見ながら、プロ野球の大記録も大阿闍梨の千日修行と同じように記録を意識するのではなく1回1回の結果を積み重ねることで成し遂げられるものなのだろう、と思った。

プロ野球は、個人成績がわかりやすいこともあって指標や記録の類が多い。特に野手の2000本安打と投手の200勝、250セーブは「名球会」という名誉ある会に入れるかどうかを分ける大記録でもあり、球団も記念グッズを作って御祝いするし、ファンお手製のカウントダウンボードが作られることもある。

そして記録を達成するたびに選手のインタビューでは「これは通過点」というコメントがでる。以前は形式的なコメントだと思っていたが、大記録を達成する人たちは大阿闍梨と似た心境に達していたのだと今は思う。

節目の記録が達成できるかどうかよりも、達成することが義務となり手段と目的が逆転してしまうことの方が、よほど怖い。
1999本目のヒットも2000本目も、なんなら2001本目だってヒットとしての価値に変わりはないのに、数字に縛られて一喜一憂してしまうのは本末転倒だ。

1000日目だろうと458日めだろうと、1日目と同じように心を込めて特別な日として過ごす。記録は単にその積み重ねでしかない。

塩沼和尚はさらに次のように語っていた。

「大勢の人に祝福してもらえるのは1000日目のたった1日だけ。それ以外の日は人知れず涙を流し、汗を流し山の中で神仏と心を交わしたという記憶だけが自分の宝物です」

現代は、ちょっと変わったことをしたただけで「いいね」がもらえ、承認欲求を満たすことができる時代だ。ただ祝福してもらうだけなら、コスパのいい方法はいくらでもある。

しかし自分の価値や生きる意味に確信は、結局は人から与えられるのではなく自分の中にあるものなのだ。たとえ他人から見たら些細な、意味のないように見えることでも、自分が心から欲し続けてきたことだけが自信を作る。

しかし塩沼和尚が「修行を嫌だと思ったことはない」と語っていたように、辛いこと、やりたくないと思っていることを無理やり続けるのは記録に囚われているのと同じだ。他の人にとっては辛いことだとしても、自分にとっては喜びとしてずっと続けられることを見つけることこそが、人生を豊かにする上で重要なのではないだろうか。

もちろん、続けられることが常に喜びや楽しさだけで溢れているわけではない。

大阿闍梨の修行は肉体的にも精神的にもかなり辛いものだし、お祝いコメントを寄せられた当の菅野も、以前別のインタビューで「野球に対する感情は好きとか嫌いとかの言葉では表せない」と語っていた。辛さや悔しさといったネガティブな感情まで含めて、それでも喜びを見出せるものこそが、生涯の「仕事」と呼ぶべきものなのだろう。

他人からの称賛を得るためではなく、自分の中から溢れ出る喜びに出会うために。

「続ける」ことの価値は、自分を自分たらしめることにあるのかもしれない。

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