BLしか読めない女たち

最初に言っておきたいが、私はBLについてあまり詳しくない。商業BLと同人BLの境界もあいまいだし、専門用語もすぐに忘れてしまう。「α」や「Ω」ならまだしも、フォーク?スプーン?カトラリー系の…何かそういうのあったな〜という程度の俄。「推しカプ」という概念もそこまで無い。そもそも、生活の中で「推し」に注ぐことのできるエネルギー・リソースが残っていない。日々過ごすだけで精一杯だ。

そんな中、なぜ本記事を書こうと思ったのか?それは、自分という女(雌)が、いかに"男性化"しているかを痛感したからだ。詳細は後述するが、TL作品を読めなくなっている。ちなみに私は異性愛者なので、現実世界で恋愛する場合はTLになる。


男女平等化の歴史と世代

いきなり話が大きくなるが、労働者としての女性を見つめるために、まずは社会の成り立ちをおさらいしたい。


男女平等の目的とは?

学校の教科書の内容だが、戦前までは選挙権が女性に付与されていないなど、女性の権利が制限されている社会構造だった。戦後、段階的に権利がアンロックされてきた。

既存のシステムを変更するのには、多大なコストが掛かる。社会全体のシステムとなれば尚更だ。なぜ、コスト掛けてまで、このような変革を進めてきたのだろうか?子供向けの教科書では、それは「人権」の一言で片付けられてきた。しかし、大人になって生産者の立場になってみると、コストを投じるからには、それなりの理由を求める癖が付いてくる。

自分が企業の採用担当者になったと仮定しよう。
ある年、求人を出すと男性10人の応募があった。X年後に求人を出すと、男性の応募は5人だった。企業の成長と社会の成長は同じスピードで、求人の相場は変わっていないものとする。それでも応募が減った。隣の企業も同じように。歳を取れば従業員は退職するので、採用しなければこれまでの業務を継続することが不可能になる。
これが、採用担当者から見た「少子高齢化の進展」の風景だ。

女性の社会進出が実現した場合、男性5人、女性5人の応募が来る。これで問題は解決。…したかに思えたが、女性は「出産」「育児」のために休職・退職をしやすい状況が解消されないと、人材不足は解消しない。

「男女の家事・育児の分担」の話は、個人単位で見れば、個人の負担をどう分け合うかという話だが、男女が別の会社に勤務している場合、それは雇用者同士で労働力不足の負担を分け合うという話であるし、女性の負担を軽減することで社会復帰を促し、長期で見て労働人口の低下を抑えられるだろう、という計画の話である。

新人の教育をしたことがある人は分かると思うが、人材育成には従業員の時間はもちろん、肉体的・精神的に本当に多くのリソースを割く必要がある。単純労働で産業が回っていた時代はとうに過ぎ、より高度な作業を求められる機会が増えた社会では、そのコストは高くなり続ける。一から新人を育てるだけでなく、ブランクがあっても、すでに経験のある人材を確保した方が効率が良い場合も多いだろう。

という、話をまとめた国の公式文章が以下だ。私の世代で、現代史の定期テストに頻出した「1999年 男女共同参画社会基本法」の前文を引用したい。

我が国においては、日本国憲法に個人の尊重と法の下の平等がうたわれ、男女平等の実現に向けた様々な取組が、国際社会における取組とも連動しつつ、着実に進められてきたが、なお一層の努力が必要とされている。

一方、少子高齢化の進展、国内経済活動の成熟化等我が国の社会経済情勢の急速な変化に対応していく上で、男女が、互いにその人権を尊重しつつ責任も分かち合い、性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮することができる男女共同参画社会の実現は、緊要な課題となっている。

以下略

男女共同参画社会基本法 | 内閣府男女共同参画局

まあ、これは一側面にすぎないが、今回の主題ではないので、このくらいで話を先に進める。


男女平等が理想とされた世代

このような背景があり、私の世代(平成生まれ)の教育では「男女平等」が重視された。

男女が、互いにその人権を尊重しつつ責任も分かち合い、性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮すること

男女共同参画社会基本法 | 内閣府男女共同参画局

よく、男性だけが権利を持っていて、女性に権利がないという部分だけがピックアップされるが、裏を返せば、男性の責任が女性にも適用されるということである。女性の責任が男性に適用される場面も当然あるが。

教育の現場では、昔は男女で異なる内容を履修することとなっていたが、平成元(1989)年以降、学習指導要領の男女別の履修に関する記述がなくなった。(参考:コラム2 学習指導要領における技術・家庭,保健体育の変遷 | 内閣府男女共同参画局

生徒の現在および将来の生活が男女によって異なる点のあることを考慮して,『各学年の目標および内容』を男子を対象とするものと女子を対象とするものとに分ける。

女子向き:調理,被服製作,設計・製図,保育,家庭機械・家庭工作
男子向き:設計・製図,木材加工・金属加工,栽培,機械,電気,総合実習

昭和33(1958)年告示の学習指導要領

女子の特性にかんがみ,(中略)すべての女子に『家庭一般』を履修させるものとすること

昭和45(1970)年告示の学習指導要領

地域や学校の実態及び生徒の必要並びに男女相互の理解と協力を図ること

女子:技術系列の領域の中から1領域
男子:家庭系列の領域の中から1領域
を含めて、男女のいずれも7つ以上の領域を選択して履修させる

昭和52(1977)年の学習指導要領

このように、期待される能力開発の観点から見ても、"段階的に"男女差がなくなったことが分かる。この"段階的に"という所が後の話に利いてくる。


家庭内の伝統的女性像の否定

母は大抵”ツイフェミ”である

平成(1989年〜)生まれの子の親は、まだ男女平等が徹底されていない世代だ。学習指導要領の男女差の是正も完了していないし、「1985年 男女雇用機会均等法」も子供が生まれる4年前にようやく制定されたという状態。

前述したが、既存のシステムを変えるのは本当に大変なことだ。父は育児に参加しないし、母は社会復帰ができない。そんな状態が、今以上に珍しくなかっただろう。しかし、男女平等が謳われるので、母は女性の権利を主張する。

そこで、論理的に権利を主張することは難しい作業だったと思う。何事も当事者と第三者では、冷静に物事を判断することの難易度が違う。

男女平等をという理想を掲げる社会で、かけ離れた現実を突きつけられた母親たちは、感情を爆発させ、暴れ、喚き、子供を殴り、罵り、その存在を否定する。「お前さえ生まれなければ、私は社会における居場所を失わなかったのに!」と言って。責任の所在は親個人にあるが、だからこそ、彼らは暴れ回る。男女平等という希望を信じ、人口の再生産に参加したのにも関わらず、男に裏切られ、社会に無視され、身も心も荒れ果てている。


矛盾する女性像

さて、それを子の方は、どんな眼差しで見るのか?平成生まれは、最初から男女平等の上で教育される。

人生の途中で男女平等に取り組み始めた世代では、責任・権利の認識に差が出てくる。例えば、(奢られたいという「個人的希望」ではなく)女性は男性から奢られる「社会的権利」があると言いながら、男性と同じ権利を主張すると矛盾が出る。矛盾に気付いておきながら、あえて戦略的に主張するという場合もあるかもしれないが、矛盾に気付きさえしない人は怒り出す。(このような状態にある人を本記事では、旧Twitterの作法に則り、日によって都合良く主張を変更する、"ツイフェミ"と呼称している。)その合理性のない怒りは、子の世代から見れば、「ああ、こうはなるまい。」と思わせるのに十分な訴求力を持っている。

当事者の目線に立ってみれば、学生時代は奢られて当然という生活をしていたのに、大人になる頃に「これからはそういう特別待遇はナシで!」と言われて、急にマインドを切り替えられますか?という話ではあるが、散々、耳元で喚き散らされ、子の存在を否定してきた母を弁護してやろうとは、もう思えなくなってしまう。


女性像の更新

「ああ、こうはなるまい。」と思った子供(女)はどうするのか?当然、伝統的な女性像を否定しに掛かる。

平等に扱ってほしいなら、「女だから」と言って社会に甘えてはいけない。
平等に扱ってほしいなら、「女だから」と言って男に甘えてはいけない。
平等に扱ってほしいなら、男と同じ土俵で戦って見せるべきだ。
平等に扱ってほしいなら、男と同じ水準で成果を出すべきだ。

ディズニープリンセスも、「白雪姫」ではなく「雪の女王」や「マレフィセント」へ。歌って踊れて"戦える"

それが美徳とされるのは
・少子高齢化の進展、国内経済活動の成熟化という、社会経済情勢の急速な変化が背景にある。
・男女平等社会の過渡期に子供から大人になった世代が、個人的主観において抱える矛盾に、心地よく応え自己を啓発してくれる。

伝統的な基準に当てはめれば、伝統的な女性が伝統的な男性のように振る舞う=女性の男性化が進んだという表現になる。


社会へ出た平成女性

平成生まれはマイノリティ

ここまで書いてきたように、男女平等を理想に掲げ、学校では教師に、家庭では反面教師に教育を施された平成生まれ。

彼らが社会へ出ると何が発生するのか?
男性には”伝統的男性ロール”が、女性には”伝統的女性ロール”が付与される。結局、昭和生まれの人口の方が圧倒的に多く、平成生まれはマイノリティ。男女平等を一から叩き込まれたにも関わらず、それと逆行する価値観を受け入れなくてはいけない状況になる。

女性が重いものを持っていたら、男性は「代わろうか?」と言うものだ。

そこに、どんな合理的な理由があるのか?すでに作業は滞りなく進んでいるのに何故そんな事を?


権利の剥奪

「この作業は俺がやった方が早い」という意見なら分かる。しかし、時と場合によらず「〜するものだ」という"伝統"を守ることで、本当に作業は効率化するのか?人材不足のこのご時世に?

合理性がなくとも、女から見れば、代わってもらった方が楽が出来て、お得だ。不満ではない。しかし、罪悪感が生まれる。そして、それは権利の剥奪とも取れてしまう。なぜなら、男女平等教育を施されているから。

平等に扱ってほしいなら、「女だから」と言って社会に甘えてはいけない。
平等に扱ってほしいなら、「女だから」と言って男に甘えてはいけない。
平等に扱ってほしいなら、男と同じ土俵で戦って見せるべきだ。
平等に扱ってほしいなら、男と同じ水準で成果を出すべきだ。

だから、「代わろうか?」には、こう答える。
「あ、大丈夫です。お心遣い、ありがとうございます。」

ここで、男性を上手く使うというのも正解だと思う。でも、それは戦略的に考え、”女”としての行動を意識しない限り、なかなか難しい所業だ。


複雑化する作法

しかも、どの程度”伝統”を守ってコミュニティ運営していくのか?は、集団によって異なる。A社とB社の間でも異なるし、A社に勤める従業員は、家庭内、自分の実家、配偶者の実家、それぞれで伝統をどの程度守るかを、都度判断しなければならない。

伝統とは本来、余計な差分を作らずに物事を運用することで、リソースを削減するという効果があったはずだ。しかし、統一されていない伝統は、余計に物事を複雑化させ、ユーザーに余計なエネルギーを使わせてしまう。

もはや、女性像という統一されていない伝統があるせいで、何もかも悪い方向へ転がっていくような気がする。しかし、その伝統を簡単に取り去ることも出来ない。性差は人格を成り立たせる要素であるから、人生の途中でその運用を変更することは、なかなか出来ることではない。

それでも、皆、自分のできる範囲で、社会の中で不和を発生させないように、絶妙な距離を保ち合って何とか上手くやっている。


TLが読めない理由


TL作品はマルチタスクを要求される

人生は一人称視点だが、作品を読む際は三人称視点である。

TLを読む時、読者である我々は三人称視点で、あらかじめ雄雌のロールを認知してから物語を知る。しかし、一人称視点の人生において、雄雌のロールはあらかじめ付与されていない。物語の途中で、ステージが変わった時に付与される。

漫画や小説なんて、ファンタジーなのだから、割り切って読み進めれば良いのだが、物語の読解と、「あらかじめ雄雌のロールが付与されている」という自分の感覚と違う価値観への共感を、同時並行で行わなくてはならず、もう物語の情緒を感じている余裕なんてない。

BLであれば、たいてい雌雄のロールが未定の状態でスタートし、途中で付与される形式なので、現実世界の主観と乖離しない。恋愛ファンタジー世界の理解に集中することができる。


TL作品は現実逃避できない

現実から逃れたくてコンテンツを消費しているのに、TL作品は、伝統にどこまで準拠すべきか?という日常的なコミュニケーションの課題に通じる内容になるので、全然逃避できない。

自分が同性愛者であったり男性であるなら、BL作品は逆に逃避できないのかもしれないが、自分と離れた属性のキャラクターのスッタモンダは、現実のアレコレを考えずに読めて良い。ファンタジーの良さはそこだと思う。

現実逃避したい訳じゃない時は、物語を読みたい気分にならないので、TLを読みたいというシーンがない。


もう女を見たくない

GLじゃダメなのか?…もう、物語の中でまで、女を見たくない。

伝統的な女性は、否定されて育ってきたし、
社会で活躍できない女性は、母の呪いを見ているようだし、
社会で活躍している女性は、自己啓発本を見ているようで疲れるし…

どんな女性像でも、見ていて疲れる。

明日から、また女性として頑張るので、
今日が終わるまでの数分だけ "女性" から解放してください。


社会と個人の趣向

趣味趣向は個人の価値観によって決まるが、価値観に少なからず社会構造や時代背景が反映されているのは言うまでもない。

本記事を一言でまとめるなら、現代社会における"女性"の遂行に疲弊した女たちはBLに逃避する。になる。

現代社会における"女性"とは、平成的女性像を教育されて育った者が、伝統的な"女性像"が残留する社会で良好な関係を維持し、生産性を最大化、男性と同水準の成果を出す。ということ。

平成的女性像とは、少子高齢化の進展、国内経済活動の成熟化という、社会経済情勢の急速な変化に対応するため、伝統的ロールに捉われず、人権の尊重・責任の分担を行い、各人材の個性と能力を十分に発揮する、また、させるような状態を理想とする。

その他、持論:

平成生まれの子は、男女平等社会への過渡期に生じた、理想と現実の差異によって人生計画を狂わされ、社会から居場所を剥奪された、親世代の不満の矛先を家庭内で向けられやすい。

破綻した論理・感情の暴発に晒されて育ったので、伝統的な女性性を否定するようになり、自分がそれを行使することも嫌悪する。しかし、状況によって要求される場面もあり、相手に悪気がないことも理解できるので、やり場のない不満・ストレスだけが蓄積される。

三人称視点では、自分も親も伝統的な女性像を要求する人も、みんな頑張って生きているだけなので、互いを否定せず尊重し、距離感を保って生活できると、全体の幸福の総量は増えると思う。

一人称視点では、子に子が存在するという責任を押し付けて来る親は憎いし、彼を見放した当時の社会も憎いし、それを許せない自分の人としての器の小ささを恥じる気持ちと、平穏無事に暮らせるように、自己矛盾が発生しない範囲で、伝統的女性像の否定と部分的行使を繰り返す作業に疲れ…

などと考えているので、TLは読んでいて疲れる。

壁になりたい。



追記:タイトルを「〜女たち」にしたのは、正解にもう1人は自分と同じ状態の人がいるだろうと思ったんで、そうした。




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