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ピアノと弦楽合奏の為の《十牛図》


前書きの前書き

「メリー、ちょっとこれ見てみてよ」
「……これは、ひょっとして楽譜?」
「そう!この間の古本市で見つけたの」
「ふーん。なになに、ピアノと弦楽のための……『十牛図』?」
「あなたピアノ得意でしょ?」
「ちょっとは弾けるけど……蓮子、まさか」
「弦楽サークルにも話はつけてあるわ。忘れられた曲の復活上演よ!」
「はぁ……何が起きても知らないわよ」

前書き

お手にとってただきありがとうございます。
7年に一度の善光寺御開帳(2022年)に合わせ書き上げたアレンジです。
東方や秘封、善光寺など、さまざまなご縁への感謝の思いを込めました。

原曲

「伊弉諾物質」から牛に引かれて善光寺参り

・伊福部昭:《リトミカ・オスティナータ》から部分的に引用

十牛図とは?

禅の修行者の悟り(本当の心を見つける)プロセスを、童子が牛を捕まえる様になぞらえ10の図で表したものが「十牛図」です。

アレンジもこれに沿って、10の場面に分かれています。

また、牛が導き手となり悟りに至るという流れを、牛を追いかけて善光寺にたどり着き、改心したという「牛に引かれて善光寺参り」にも重ねています。

一.尋牛(じんぎゅう)

牛=本当の自分を探して旅にでる
(自分の中の本当の心に気付かないまま、遠くを探している)

二.見跡(けんせき)

牛の足跡=手がかりを見つける
(先人の経典を読み解く)

三.見牛(けんぎゅう)

ついに牛を発見!
(色々模索する中で、本来の自己を見つける)

四.得牛(とくぎゅう)

牛を捕まえるために奮闘=修行
(牛が逃げないよう、手綱を強く握っていなければいけない)

五.牧牛(ぼくぎゅう)

牛を手なづけられるようになる
(鍛錬で牛を飼い慣らし手綱を緩めても大丈夫に)

六.騎牛帰家(きぎゅうきか)

牛に乗って悠悠と帰還
(人と牛の対立がなくなり、一つになる。争いが止む)

七.忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)

牛がいなくてもいい状態になった。
(牛はあくまでもきっかけ、悟ったなら牛はもう不要)

八.人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)

そして誰もいなくなった
(どこにもとどまらない空の状態)

九.返本還源(へんぽんかんげん)

自然=世界をありのままに見れるようになる。
(悟った「空」を通して、この世の「色」=幻想を見つめ直す)

十.入鄽垂手(にってんすいしゅ)

他の人を救おうと街へ出る
(悟った境地すら捨て去って、人々を救いに俗世に戻る)


アレンジ上では、

 牛=ピアノ→メリー
 童子(衆生)=弦楽器(指揮)→蓮子

となっていて、メリーが幻想の世界へ導くことによって、科学世紀の人(蓮子)が救われていく、
そんな構図になっています(↑のショートストーリーの言い出しっぺは蓮子ちゃんですが笑)


楽曲解説

編成:ピアノと弦楽合奏
楽章:単一楽章
調性:変ホ短調
形式:ソナタ形式
(曲は一曲だけですが、一続きで20分のアレンジです…!絵巻物みたいですね)

00:00 一.尋牛   :序奏

原曲のイントロ(鐘の音)を弦が奏でるところから始まります。
バイオリン+ビオラの高音域で、澄んだ感じで始まりますが、これが「迷い」の主題になり、迷っている童子のテーマになります。
しばらくして低音部がリズム動機を出しますが(牛の足音)、それに気づかないまま、「迷い」の主題が進行します。

01:11 二.見跡   :〃 

低音が静かになり、再び「迷い」の主題が現れますが、タイミングを変えながらパート間で繰り返され、悩みが絡み合い複雑化・混迷していくと、それに止めに入るように低音パート(牛の足音)も強奏され、緊張が高まり↓

02:00 三.見牛   :〃 (ピアノソロ)

(弦の)迷いを断ち切るようにピアノ(牛)が鋭い和音で登場します。(この音は「迷い」の主題の構成音が元になっています。迷いがあるからこそ悟りたいと願うのです)
まとわりつく「迷い」を払い退けるかのように、うねるように縦横無尽に音域を行き来して一旦止まります。

そして、一音ずつ確かめるように、「経典」の主題(原曲のイントロのピアノのメロディ)が導かれます。
これは原曲のメロディと伊福部昭《リトミカ・オスティナータ》の主題を掛け合わせた形になっており、(まさしく経典を唱えるように)楽曲中で何度も繰り返されるテーマになります。
そして、しばらく黙っていた弦もそれに呼応するように、伴奏し始めます。

03:33 四.得牛   :提示部(第一主題)

ピアノが弦を導くようにして、ここでとうとうメインの主題(第一主題)が現れます。
原曲の、信念を持って遠くから遥々やってきたような、スケール感、ロマンチックな雰囲気を前面に出すようにアレンジしました。
困難を超えながらも一歩ずつ前進しているような感じです。

またピアノ(牛=心)は まだ気まぐれで、第一主題の途中でどこかへ行ってしまいますが、弦はそれを止めることができず、主題の続きを奏します。

05:49        :〃  (第二主題)

少しの間の後、2つめのメロディ(第二主題)登場です。原曲では1つ目のメロディとそこまで違いが強調されていませんでしたが、動きのある躍動的な感じにアレンジにしています。
第一主題「静」に対する「動」になり、これが展開部へ進む機動力にもなります。

自由闊達でウキウキと弾む心の動き。弦もピチカート(弦をはじく)で応え、またパート間でメロディが受け渡されていくなど、全体を通してダイナミックな曲調になります。

07:00 五.牧牛   :展開部

少し落ち着いて静かになったのち、第二主題の勢いをそのまま引き継ぐように、展開部へ突入します。展開部は始終緊張感に満ちた状態=牛の手綱が張られた状態になっています。

ピアノが再び第二主題を弾きますが、さらに技巧的(ピアノの見せ場!)になります。
続いて低音部が息の長い音符で唸るように鳴る中、ピアノに「経典」の主題が現れ、主題同士が激しくぶつかり、tutti(ピアノ+弦全パート)でクライマックスを築くと、それを弦が引き継いで一旦 一段落します。

07:58        :〃  (弦部)

展開部の弦楽器パートです。
第一主題を模した音形がバイオリンから出て、受け渡されていきながら絡み合い、曖昧な雰囲気で流れていきます。
それを突然断ち切るように、第一主題から派生した主題がフーガになります。
再びフーガになりますが、四拍子のメロディはそのままは三拍子サイクルになり、不安定さが増して、ついには「迷い」の主題も現れ、混沌を極めていき、弦ではどうでもできなくなります。

「前思わずかに起これば後念相従う」(十牛図)
「暑い」や「喉が渇いた」という反応(前思)が、「〜したい」「〜ほしい」という煩悩(後念)につながってしまう。

そうした、迷いの連鎖のようなものをフーガで表現しました。

09:46        :〃  (ピアノソロ)

そこへ最初に現れた時と同じく、(弦の)迷いを断ち切るためにピアノが再び黙っていた口を開きます。
ピアノも第一主題をそれぞれの手で弾きますが、それもフーガ風になってしまっていることに気づき、中断します(煩悩の否定)。

呼吸を整えるように和音を鳴らした後、改めて第一主題をアレンジしたソロが始まり、これで良い、と肯定するように高らかに歌い上げられます。
そして弦もそこへ静かに歩み添って行き、一緒に元の場所へ戻って行きます。

12:03 六.騎牛帰家 :再現部(第一主題)

再現部です。一連の苦労を乗り越え、「四、得牛」の形に戻ってきました。最初は途中でピアノがいなくなりましたが、今度は離れずずっと付き添い続けます。

弦の方は最初とほとんど同じですが、ピアノはアドリブ風のフレーズで、喜び駆け回るように歌います。
メロディ+伴奏のような形ではなく、自然体で共存するような関係で、最初とは違い今度はピアノが寄り添ってます。
論語の「七十にして矩を踰えず」(思うままに行動しても道徳から外れなくなった)の境地でしょうか。

14:14        :〃  (第二主題)

最初、躍動的だった第二主題は一転して静かになり、ピアノだけで奏されます。
それに弦が続きますが、繰り返されるたびに他のパートも対位法的に加勢して行き、最後は堂々たるクライマックスを作り上げます(音楽的にすごく気に入っている部分で、光を感じます)

15:19 七.忘牛存人 :偽コーダ

(原曲の)アウトロ部分です。牛(ピアノ)を忘れて、童子(弦)が何処かへ向かって歩くように歌っています。
本当に帰ってきた、終わったのだとと念を押すように淡々と「終わり」を強調します(果たして本当にそうでしょうか? まだ何かやり残していることがあるのでは。。。)

16:37 八.人牛倶忘 :(全休止)

沈黙。

額縁によって絵の大きさ等が決まり、エンドロールが映画の終わりであるように、静寂は音楽の終わりです。
終わったと思った瞬間、曲の回想が始まり、感想が浮かんだりします。

人生でいえば、亡くなったとき、その人のことを偲んだり、あるいは評価が決着したりする。
「問題は死の見方に関わっている」(三木清)

悟るとどうなるのかは、悟らなければわかりませんが、臨死体験の先に安寧があるのではないか、、
ジョン・ケージの「4時33分」ではありませんが、沈黙の意味を考える全休符(ゲネラルパウゼ)です。

17:01 九.返本還源 :終奏 

まだ曲は続いています。
真っ暗な世界に突然光が指すように、静寂の世界に音が戻ってきます。
再び冒頭の「迷い」の主題が出てきますが、手を加えず、ありのままに奏でる(ありのままの世界を眺める)。
そうした世界にある安らぎのようなものを表現しました。激しさはないですが、静かな感動だけがある処です。

オリジナルの「十牛図」では、八で終わりですが、日本では九、十が追加されています。
自分だけが悟ったら終わり(小乗)ではなく、元の世界へ戻って皆を救わなければならない(大乗)。
それが九そして十図になります。

18:16 十.入鄽垂手 :〃

長い旅の冒頭を思い出すように、再びピアノが「経典」を奏でます。
それは少しずつ勢いを増し、それに導かれるように弦もクレッシェンドしていきます。
冒頭の「迷い」の主題が再び第二バイオリンに現れますが、展開部のピアノソロででた音系が第一バイオリンに現れ、迷える人を救い出すように1つ目の主題と噛み合わさります。
そして最後は、人々を漏れなく救うように、全楽器の強奏で華々しく曲が終わります。

私が読んだ本では、この入鄽垂手の「垂手」は、「地獄へ手を垂れている」状態とのこと。
人を救うには自分も地獄へ落ちても構わない、という切実な思い、覚悟を表していて、その悲痛な願いを曲にも表現しました。

後書き

最後までお読みいただきありがとうございました。
自分の曲を解説するのは、なかなか慣れませんが、このアレンジを聴いて、秘封が更に好きになり、また善光寺や仏教、クラシック音楽などにも興味を持っていただければ幸甚です。
どうもありがとうございました。

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・「この東方アレンジがすごい!(2023)」に応募いたしました!(11/15)

後書きの後書き

「メリー、やっぱりあなたの弾くピアノは本物よ!聴衆だけじゃなくて演奏者までもが感動して涙を流していたわ」
「え?そうだったの?私はずっと弾くのに必死で……。」
「……そうね。たしかに、まるで何かに取り憑かれたようだったわ。もしかして弾いてるあいだ、何か視えていたんじゃない?」
そう訊かれ思い浮かんだのは、遥か遠い昔、仏教の興った「彼の地」から、大陸を伝い、海を越え、途方もない年月を経てきた「此の地」への旅路。
牛の姿を借りて、一歩、また一歩と、遅くとも力強い歩みで人々を救うためにやってきた……。
「ええ、蓮子。きっとあなたにも視えていたはずよ」
そう言われた蓮子の瞳も涙で溢れていた。

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