見出し画像

ミッドナイトゴスペルの仏教思想〜解説・考察〜


ミッドナイトゴスペル。
常軌を逸したカートゥーンアニメ。
最早カートゥーンアニメという括りに分類できるかどうかも危うい。
完全に類するものが存在しない。
唯一無二の作品だ。他の追随を許さない。

かの作品の作風を狂気ととるか、或いは信仰ととるか、それは個人の選択に委ねられるだろうが、自分はミッドナイトゴスペルをアニメ作品にありがちな比喩ではなく真の意味で宗教だと考える。

『宗教哲学をわかりやすく解説したアニメ』ではない。完全に新興宗教だ。

アメリカに渡ったチベット仏教が様々な死生観や精神医学を取り込むうちに発展し、ペンデルトン・ウォードなりの仏教解釈の果てに生まれた宗教、つまりは仏教から派生した新しい宗派だと思う。

ミッドナイトゴスペルは教典だ。
般若心経や聖書の様な、特定の宗教を多くの人間に広くわかりやすく伝えるための媒体。
それが仏典や書物ではなくアニメの形をとっただけのこと。ペンデルトンによる福音書と言えるだろう。

自分は敬遠な仏教徒ではないし、宗教哲学について深い知識を持っているわけでもない。
しかしながらミッドナイトゴスペルを最終話まで履修し、その中で見つけた仏教的な気づきを辿々しくも今回の記事でつらつらと書き出して行きたいと思う。

伝えたい内容は大きく分けて2つだ。

◆ミッドナイトゴスペルの仏教要素


・輪廻転生

まず、第一にこの物語に無くてはならないものがシュミレーターである。
クランシーはこの機械に頭を突っ込み、アバターの身体を手に入れ様々な惑星へと取材に出かけていく。
このシュミレーターだが、女性器を思わせる形をしている。というかまんまだ。まんまだけに。
この女性器に頭を突っ込み、新たな肉体を受肉し惑星に降り立つというのは人間の誕生メタファーだろう。

そしてクランシーはその仮初めの身体で人々と語らい触れ合い、そして死ぬ。
ほとんどの惑星で住民もろともクランシーの肉体は死を迎える。
これは輪廻転生である。
何度もアバターとして誕生し、やがて死を迎える。それを何度も繰り返す。

インド哲学において命あるものは限りなく輪廻を繰り返し転生し続ける、限りない生と死の繰り返しは耐え難い苦痛であり、悟りを開き、2度と転生をせずに輪廻の輪から外れる『解脱』こそが仏教徒の最重要の目的としている。

今生の命だけでは悟りまでには至れない。
何度も輪廻転生を繰り返し様々な経験を重ね来世、或いは気が遠くなるほど遠い来世のまた来世での解脱を目指す。
何度も何度もアバターとして生まれ、様々な人々と触れ合い様々な経験を積み、やがて死ぬ。それを繰り返すクランシーはまるで解脱に至るための修行をしている様だ。


最終話において母との対話を通し死すらも生の循環の一つでしかないと悟ったクランシーはついに身体ごと仮想世界に飲み込まれていく。ここで彼の旅は終わる。
2度とアバターの身体に転生し、また死ぬ事もなく自由の境地へと達した彼は正しく輪廻転生の輪から外れ解脱に至ったと解釈できるだろう。

自分は第3話くらいまではクランシーは既に解脱した身であり神に属する存在だと思っていた。
観音菩薩が様々な姿となって人々の前に現れる様に、クランシーも様々なアバターの姿を借りて惑星に降り立つのだと。
しかしそれは誤りでありクランシーは人の身であり、ミッドナイトゴスペルは彼が解脱に至り覚者として、仏陀となるまでの物語だと解釈できる。

現に第一話では瞑想によって怒りをコントロールできると豪語していたクランシーは第6話で怒り狂い、瞑想などクソだとすら罵倒していた。その後また瞑想の指導を受け自らを悟ったと称するもその悟りは一時的な感覚に過ぎず、真の悟りには最終話でようやく至ることとなる。

超然とし飄々とした彼の立ち振る舞いは第一話から覚者の様な雰囲気を醸し出していたがそれは単なるポーズであり回を増すごとに人間らしさを増す彼の解脱までの道のりを視聴者は見守ることとなる。

・般若心経『空』

般若心経における『空』という考えをご存知だろうか?
色即是空という言葉で知っている方もいるかもしれない。
噛み砕いて言えば
『自らを含めた物質的現象には実体が無い』
ということである。
噛み砕いても尚わかりづらいな。

実はこの仏教における究極の真理については第一話でクランシーが気球の中で大統領に解説している。まったく同じものだ。

かなり簡単に言うならば全てのものは存在しない。自分の心が、そう存在していると認識しているからこそ、そこに存在している。

ぴんくのゾウの夢を見たとしよう。
この瞬間、確かに貴方はぴんくのゾウを認識している。ゾウは確かに存在している。
しかし目が覚めれば当然ぴんくのゾウはいなくなる。心が認識しなくなったからだ。
全ての現象は心の現れに過ぎず、夢を偽りとするならまた現実も偽りであると言わねばならない。

要するにその瞬間、自分がいると認識した世界で、自分が存在すると心で認識することで、ようやく全てのものは存在していると言える。(しかしその存在すらも空でありそもそも存在しない、が、これ以上考えると頭がおかしくなるので止めよう。)

更にめちゃくちゃ簡単に胃で溶かして吐き戻し伝えたい事を要約するのならば、
夢も、現実も、仮想空間も、自分がそこに存在し、そこに存在するものを存在すると認識すれば確かにそれは存在している。現実や幻の垣根は無い』だ。まだ難しいな。

ミッドナイトゴスペルにおける仮想空間も現実も何ら変わらない。
クランシーが存在していればそれは確かに実際に存在する世界なのだ。
ミッドナイトゴスペルは仮想空間での冒険という形で我々に色即是空の教えを説いている。

毎回仮想空間から持ち帰っている靴、或いは
第4話で仮想空間で手に入れたバラ、第1話で連れ帰りレギュラーキャラとなった犬のシャーロットなどを現実世界に持ち込んでいるのがその証拠だろう。

クランシーが現実世界でも確かにあると認識した存在だからこそ仮想空間から抜け出しても存在できた。

今、ここにあると心が認識したものこそが現実。クランシーは作中で何度かダンカン(中の人)として呼ばれているがダンカンが自らをクランシーだと認識する世界、ミッドナイトゴスペルという作品の世界も確かに実在すると言えるのである。

これ以上踏み込むと仏教を超えて哲学の出口のない禅問答になってしまうのでこの辺に終わりにしよう。読んでる方も疲れるだろうしそして自分も疲れた。


◆最後に

細かいところを突いていけば未だ話題は尽きないがとりあえず重要な2点は書き綴れたと思う。輪廻転生と空、特に色即是空についてはかなり解釈が多岐に渡るので気になったら自分で調べてみよう。

ミッドナイトゴスペルをスティーブンユニバースやアドベンチャータイムの様に全人類見てくれと勧める事には抵抗があった。
最終話を見るまでは。 

最終話を見終わった段階で全人類が見るべきだと思った。
誰もが必ず迎える死という人生最大のイベントを、ミッドナイトゴスペルを見ているか見ていないかではその受け止め方が大幅に変わる。

死に向かう生の流れを慈悲と取れるかどうかは本人次第ではあるがやがて死に朽ちるまでの道程に修めるべき教えである事には間違いないだろう。

生や死に向き合い、思考を巡らせずにはいられない、新たな気づきや真理に至るヒントを与えてくれるミッドナイトゴスペルは有象無象の宗教の教典と何ら変わりない。

ミッドナイトゴスペルはカートゥーンアニメの皮を被った、仏教から派生した新しい宗教。


比喩ではなく宗教そのものなのである。

画像1


私は遊園地にあるパンダの乗り物と同じなので、お金を入れると動きます。さ、お金を入れてぴんくチャンを動かしてみよう!今度はどんなえげつない動きをするかな??