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【ケビン・ミッチェル】サンディエゴのスラム街で草野球をしていたところをスカウトされメジャーリーグで本塁打王にも輝いた大砲は日本で衝撃デビューを飾るも噂通りのトラブルメーカーだったお騒がせ助っ人

おはようございます。
日本にやってきた
お騒がせ助っ人たちの真相に
迫る番外編、今回は
ケビン・ミッチェルを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=_F8klMDy0T8&t=92s

1962年、アメリカ合衆国カリフォルニア州に
生まれたミッチェルは、家庭の事情から
サンディエゴのスラム街で祖母と生活を
ともにしていましたが、
次第に生活は荒れていき、中学を退学した頃には
札付きのワルとしてギャング団に
属するようになっていました。


敵対するギャングに3度、銃撃された事もあるほど
殺伐とした環境下で高校にも行かず、
草野球をして遊んでいたところ、偶然通りかかった
メッツのスカウトがその野球センスを目の当たりにして
声を掛けます。

のちに殿堂入りも果たす天才打者トニー・グウィンが
「内角はレフトへ本塁打し、外角の変化球はライトに
安打するセンスは地球上でナンバーワン」とまで
絶賛した才能に惚れ込んだメッツは
1980年、ドラフト外で契約して入団させましたが
私生活の乱れからくる肥満体型で毎年のように
故障を繰り返しました。

1984年、マイナーリーグで
ダリル・ストロベリーと殴り合いの喧嘩を
するなど素行の悪さはすでにビッグリーグ級でしたが
セプテンバー・コールアップでメジャー初昇格すると
9月4日のセントルイス・カージナルス戦に
代打で出場してメジャーデビューを果たします。

翌年もマイナーリーグで力をつけて迎えた
1986年シーズン、複数のポジションを守れる器用さを
買われて開幕メジャーを勝ち取ると
4月27日のカージナルス戦でジョン・テューダーから
メジャー初本塁打を放ち、前半戦を
打率3割4分2厘の好成績で終えたばかりか
守備の方でも投手、捕手、二塁手以外の全ての
ポジションで先発出場するほど
デービー・ジョンソン監督に重宝されました。

後半戦も好調を維持して
ルーキー・オブ・ザ・イヤー3位に入る活躍と相まって
チームは13年ぶりのリーグ優勝に輝き、
進出したボストン・レッドソックスとの
ワールドシリーズでは、後世にまで語り継がれる
ミラクル・メッツの一員として躍動します。

2勝3敗で迎えた第6戦、試合は3対3のまま延長戦に
突入した10回表、レッドソックスは2点リードを
奪うとその裏、クローザーのカルビン・シラルディを
投入、あっさり2アウトとされ、地元の
ファンもメッツの負けを確信して
席を立ちかけていましたが
カーターがヒットを放って首の皮一枚つながると
代打ミッチェルがコールされました。

ユニフォームを脱ぎ、すでにサンディエゴの自宅に帰る
準備をしていたミッチェルは大慌てでユニフォームに
着替えなおして打席に立つと、ヒットを放って
メッツの逆転勝利の御膳立てをしたのです。

この試合をサヨナラでモノにしたメッツは
その勢いのまま、第7戦も制して世界の
頂点に立ちました。

その年のオフ、故郷サンディエゴ・パドレスに
移籍したミッチェルでしたが、シーズン途中から
サンフランシスコ・ジャイアンツに移ると
移籍当日、挨拶代わりの1試合2本塁打を
かっ飛ばすなど
チームの主力となり、最終的に
打率3割6厘、15本塁打を記録して地区優勝に
貢献します。

1989年4月26日のカージナルス戦では
サードからコンバートされたレフトの守備に
ついていた
ミッチェルはファウルゾーンに切れていく打球を
果敢に追っていくと、グラブではなく右手を伸ばして
素手でキャッチしたのです。

故障リスクを恐れず、直接捕球した
このベアハンドキャッチは
「ノー・グラブ、ノー・プロブレム」と
全米の話題となりました。

さらに守備の負担が軽減された影響か
前半戦だけで打率2割9分5厘、31本塁打、
81打点を記録、
オールスターゲームにはファン投票で初選出され
ホームランダービーにも参加、
実際の試合にも4番、レフトで名を連ねると
2安打を放つ活躍を見せて
最終的に打率2割9分1厘、47本塁打、125打点の
好成績で
本塁打と打点の2冠に輝いた大砲は
ベイブリッジシリーズと呼ばれた
オークランド・アスレチックスとの
ワールドシリーズ進出にも貢献したのです。

MVPとシルバースラッガー賞も受賞したミッチェルは
翌1990年も3打席連続本塁打の固め打ちを見せると
前半戦だけで打率3割1分2厘、21本塁打を記録、
オールスターゲームには2年連続ファン投票で
選出される人気者となり、球団はシーズン途中にも
関わらず
4年1500万ドルで契約延長のオファーを
出すほどでした。

しかしこの頃から少しづつ、自身の野球人生に
暗雲が立ち込めます。

1991年も27本塁打を記録していましたが
手首と膝の故障に悩まされたうえ
婦女暴行の疑いで告発されたことから
1992年、シアトル・マリナーズへ放出されると
14キロも体重オーバーした状態で
キャンプ地に現れたサボり癖のある大砲は
1年限りでシンシナティ・レッズへ飛ばされました。

そのレッズでも自軍のボスである
デーブ・ジョンソン監督と試合中に
大乱闘を起こし2試合の出場停止処分を受けるなど
滅茶苦茶な性格でしたが
成績のほうは打率3割4分1厘、19本塁打と
相変わらずの才能を見せたのです。

1994年も95試合で打率3割2分6厘、
30本塁打と活躍していましたが
ストライキにより、シーズン途中で打ち切りが決定、
出口の見えないMLBに見切りをつけた
多くの大物メジャーリーガーが
日本にお金と働き場所を求めるようになりました。

ちょうどその頃、福岡ダイエーホークスは
世界の王貞治氏を新監督に迎え、西武から工藤、
石毛をFA補強、さらにもう1つの目玉として、
ボブ・ホーナーをも上回る現役バリバリの
大物メジャーリーガーを
強く望んでいた事から、本塁打と打点の2冠に
輝いたこともある
大砲に白羽の矢を立てて交渉を開始したのです。

MLB時代から問題行動が多く
トラブルメーカーで満身創痍、
交友関係にも難ありと、リスクの大きい選手
とされた問題児に
泣かされ続けていたレッズは日本行きを
大歓迎して後押しすると、福岡ダイエーホークスは
人気者のブライアン・トラックスラーを解雇してまで
獲得を決断し、2年後に阪神タイガースに
史上最低の助っ人と言われたマイク・グリーンウェルを送り込んだ
代理人、ジョー・スローバーと交渉の席に着きました。

伝説の助っ人、ボブ・ホーナー以上の右の大砲という
前評判に日本のプロ野球ファンは前のめりになり、
来日に心躍らせると、日本人選手最高額、落合の
年俸3億8000万円を上回る、年俸4億円で契約がまとまり
海を渡ってきたのです。

会見場に現れた身長180センチ、体重100キロの巨体は
「世界の王を尊敬している、
彼を胴上げするために俺が呼ばれた事は分かっているさ」
とホークスファンを泣かせる台詞を口にしますが
春季キャンプに参加した12球団の助っ人の中で
最も遅い合流でした。

それでも本拠地、福岡ドームのオープン戦に
現れた33歳の助っ人は、広島の紀藤投手から
レフト前へ初安打を放つと、翌日の試合では二塁へ
併殺崩しの激しいスライディングも披露、
「シーズン前だし相手にケガをさせては
いけないから、本気じゃないけど、
シーズンに入ったら寝てもらうよ」と
威勢のいいコメントを残します。

グリップが細いわりに芯の部分が太く、
35.5インチ、36オンスという重いバットを
腕回り50センチの丸太のような両腕で器用に
使いこなす背番号39に対して
「よくあんなのが振れるな」と、王監督も
感心しきりで迎えた1995年4月1日の開幕戦、
日本列島に衝撃が走りました。

初回、ノーアウト満塁で来日初打席が回ってきた
4番レフトの大砲は、西武のエース郭泰源の
外角スライダーを振りぬくと、ライナーで
左中間スタンドに飛び込む日本球界初の開幕戦、
初打席満塁本塁打を放ったのです。

翌日も小野投手から特大アーチをかっ飛ばし
王監督と満面の笑みでハイタッチした助っ人を
福岡のファンは「ボブ・ホーナーの再来、
これが待ちに待った現役バリバリの
メジャーリーガーだ」とお祭り騒ぎとなり、
同僚の秋山も
「ボールがぶっ潰れるくらい叩いているからか
打球がおかしな回転をしているんだ。
日本人だと下半身も使わないと飛距離は出ないが
あの上半身だから小さなスイングでも飛ぶんだね。
軸もブレないし、とにかくすごいのひと言だよ」と
その迫力を証言しました。

試合前の守備練習ではショートに交じって
俊敏な動きを見せたり、練習のあとは若手選手と
一緒にボール拾いをしたりと、懸念された問題行動はなく、
順調なスタートに関係者が胸をなでおろしかけた矢先、
症状が出始めます。

開幕11試合目の4月14日、近鉄戦の
プレイボール直前、熱っぽいからと突然欠場したのを
皮切りに、翌日は古傷の右ヒザを痛めたと試合の途中で
交代を要求、
「少々素行が悪くてもグラウンドで結果を出せばいい」と
王監督も大目に見ていましたが、5月に入るとその頻度は増加し
5月11日には、右膝痛を理由に練習を欠席すると
東京遠征までキャンセルしたため、球団は
福岡大学の外科医の元に連れていき、
MRIをとらせましたが
「異常もないし、野球にも支障がない」と
診断される始末に
「本当に痛いんだ、セカンド・オピニオンのために
アメリカに帰りたい」と言い出しました。

予想より早く大リーグのストライキが終わり、
メジャーの試合を朝まで衛星放送で
見ていた事による寝不足が原因だとも囁かれましたが、
故障で練習を休んだ日に立川の米軍基地で
飲酒していた事が発覚して、球団に問われると
「プライベートな事だから関係ないだろ。
そんな事を言うならアメリカへ送り返してくれ、
あとは代理人に任せる」と、
5月26日、無断帰国したのです。

球団代表も
「我々、ダイエーグループは投資先を間違ったら
すぐに撤退する。今はそういう作業をしている時です」
と職場放棄を理由に年俸の支払い停止を通告し
解雇の方向でしたが、当の本人は
「俺は辞めない。帰国したのはサンディエゴで
経営している
アパートと美容院が心配になった事とアメリカで治療を
受けたいだけだったんだ、それが済んだら日本でプレーする」と
7月21日に再来日しました。

翌日、メディア向けの会見が予定されていましたが
「長旅で疲れた」と早速ドタキャンしたミスタートラブルは
復帰第1戦の7月29日、西武戦に出場すると5打数4安打の
固め打ちを披露、8月8日までに33打数15安打、2本塁打、
9打点を記録して、メジャー時代に年間32敬遠の
右打者最多記録を持っているという
ケタ違いの実力を見せたのです。

しかし8月11日、「右膝が痛い、2週間で帰ってくる」
と2度目の無断帰国をすると、さすがに球団も
見切りをつけて、そのまま解雇となり、最終的に
37試合の出場で39安打、打率3割、8本塁打、
28打点という
成績だけが残りました。

小説家マーガレット・ミッチェルの代表作
「風と共に去りぬ」をもじって
「金と共に去りぬ」と揶揄された上に
年俸の全額支払いを要求され裁判沙汰にまで
発展した王ダイエーは、シーズン5位に沈み
散々な結果となったのです。

近所の犬が毎朝に吠えるからという理由で
練習に現れない助っ人を
元阪神タイガースのランディ・バースは
「実力があるのにMLBが契約しない理由は
分かりきっていたはずだけどね」と
語っていました。

帰国後はボストン・レッドソックスや
シンシナティ・レッズでメジャー復帰を果たし
打率3割1分6厘の成績を残しましたが
ここでも監督との喧嘩や素行不良が原因で
インディアンスやアスレチックスなども
転々とすると
不摂生がたたって糖尿病を患ったうえに故障も
重り、1998年、MLBから引退したのです。

その後はメキシカンリーグや独立リーグで
選手兼コーチとして野球を続けていましたが
両親に貸していた家の家賃滞納を巡って
父親の頭部を殴打し逮捕されたり、
カリフォルニア州から518万ドルの脱税者として
マークされたほか、独立リーグのコーチでありながら
相手選手を殴っての出場停止に
ゴルフ場で口論となった相手を暴行した疑いでふたたび
逮捕されるなど、一向に更生する気配は
ありませんでした。

ジャイアンツ時代のアル・ローゼンGMが
「トラブルが付いて回るんじゃない。
彼自身がトラブルなんだ」と
公言するほどの超問題児は、
「ドーナツで歯茎を火傷した」だの
「クシャミをして肋骨にひびが入った」だの
あの手この手でズル休みをしては、球団と揉め、
メジャー通算220発と圧倒的な打撃センスを
持ちながら
トラブルのデパートと呼ばれたのです。

ミッチェルが福岡を去った6年後、いとこの
トニー・ミッチェルが同じくホークスに入団し
こちらは超優等生だったものの、成績のほうは
65試合で打率1割9分3厘と落第点だったところに
助っ人の難しさを感じたのでした。

日本球界のルールを破ったと無法者扱いされ、
海を渡った野茂英雄がアメリカでトルネード旋風を
巻きおこしたその年に、入れ替わりで
日本にやってきたMLBの
無法者は、素行の悪さと野球センスが超一流の
メジャーリーグ史上類稀なる大物ヒール、
ケビン・ミッチェル。

https://www.youtube.com/watch?v=yO7XsGRO4P0&t=61s

いかがでしたでしょうか?

今後も良くも悪くも大きなインパクトを
残していったお騒がせ助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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