彦坂尚嘉論(4)

…むろん1969年の多摩美術大学のバリケード闘争、美術家共闘会議(美共闘)に参加し、のちに「映画批評」の松田政男の薫陶を受けた彦坂を「左派ではない」ということは、到底できない。

経歴的にも実存的にも左派である。後年、彼が語るところによると、

日本という権力主体はアメリカに従属をしていながらも、じつは対米戦を深い部分では継続してきているのである。それ故に、アメリカは繰り返し日本に敗戦を味わわせる必要がある。「戦後レジームからの脱却」をスローガンに掲げる評判の悪い安倍晋三総理大臣にしても、その根底にあるのは反米的な敵愾心なのではないか。世界情勢は二五年ごとに大きく変貌してきているが、その区切れ毎に、日本は国を支配する主体が自らでは無く、アメリカ合衆国にあることを確認させられるのである。しかし日本社会はこういう世界情勢の変化を直視する事ができず、過去の中に逃げ込み、レトロ化で充足している。だがしかし逃げ切れないのである。

彦坂尚嘉/反覆 新興芸術の位相

もっとも、ただの左派ではなく、現実主義的・行動主義的左派というべき。このことは山本太郎へのいっけん奇妙なシンパシーなどとも符丁が合う(最近の動画をチェックすると、すでに見限っている様子だが)

2020年アメリカ合衆国大統領選挙の際、一貫してトランプ支持のようにふるまい、美術村の内部では「晩節を汚している」ともささやかれたのだが、これまたあまりに表層的な理解といわねばならない。


あのとき、現代アートなんぞワンパンで吹き飛ばしてしまう様な”暴徒たち”が出没した。

少なくともわたしにとっては、だけど、おおくのことが未済定であるがゆえに、並々ならぬ引き寄せる力をもっていた。

あきらかに「ニューメディアとナルシズム」のような、従来の、もっともらしい社会学的トピックを持ち出して片づけられるものではない、時代の画期をもたらしていた。また彼らのまとう雰囲気は、けっしてレトロではなく、どこかデジタルな質をも備えてもいた。

この感覚とは、いったい何だったのだろう。


いちおう断わっておくと美学と政治はきちんと峻別しなければならないことは十分承知しているつもりで、先ずいうのだが、浅田彰が「新しい右翼の一部は露悪によって偽善を批判する関西のお笑いTV番組が育てた」と、いみじくも表現していたものが、ここにもあったのではないだろうか。

彼らは露悪により偽善を批判する。

なにより多くのアメリカ人たちは貧しい。

現実の狭隘化、外としての空間可能性の消滅、この確定要素と、最新テクノロジーがコンフュージョンを果たした時に、何かが起きてしまった。

甲斐性の無い彼らのイメージ受容はおそろしく受け身である。にもかかわらず、傍から見ると、その仕方がいかにもアクティヴで、多彩なバリエーションを備えている。この形成は、彼らの手柄というよりも、けだし彼らと深く結びついているテクノロジーの側で、思慮深く設計されている豊かさによる。

歴史的な事件というのは、本質的にはそういうところがあるのではないか?とも思う。理性的な革命やら、理性的な戦争など、ひとつもありはしない。そうではなく、理性が蓋をしてきた錯誤の湿地地帯から、それはなされる。理性の壁を打ち破るかたちで、ほんとうの歴史が生起される(ただし、わたしは偽善や建前ははやり重要だと思っている。建前なんてどうでもいい、露悪上等と言い始めたらそいつは單にガキである)


一般的には民主党こそが左派を意味するのである。しかし彦坂はあの選挙の過程のなかに、民主党の”中共化”の影=全体主義化を意識していた。

とはいえ、その一方で、誰が何と言おうと、労働者たちは政治闘争に巻き込まれていつも騙されるものである。

繰り返し繰り返し、なすすべもなく、彼らは支配階級に搾取されるほかない。マッカーシズムなんぞよりもはるか昔から「労働階級の最悪の敵は労働階級」といわれてきた。

あの大騒動を総括すると、それ以外に言いようがあるだろうか?とも思える面が多々あった。一概にバイデンの民主党が悪で、トランプの共和党が善であるとは、いえない。

アーティストの言説レベル=芸術判断でいうのであれば、「偽善」の側につくか「露悪」の側につくか、どちらがより弱く「嘘」だったのか?ということ。

<続>

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