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どうせ2日で終わる日記-65-(自分に関する考察)【8/29-9/4】

マナ

自分に関する考察

僕は他人のことが常に薄っすらと嫌いだ。
これは「人間嫌いな俺かっけ~w」的な中二病的サムシングではなく、純粋に知らない奴に対して中立的な感情を取ることができない、という僕自身の性質の話だ。
逆に言えば、別に家族や仲のいい友人に対してはそんなこと1ミリも感じていない。むしろ暫く会わないと恋しくなるほどだ。
しかし、街ですれ違う人に対しては常に何らかの嫌悪感を感じてしまうし、全く知らない初対面の人間とはどうしても距離を置きたくなってしまう。

人見知り、といえばそうなのかもしれない。
しかし、別段全く知らない、僕の人生に今後関わらない人に対して何か話しかけたりすることには何のためらいもない。
だから、前の人のリュックの口が開いていれば普通に声をかけるし、床屋で何か話しかけられても普通に返事をする。
そういう意味では、僕の知っている人見知りとどこか違うような気がするのだ。

別に敵意がある訳でもない。
親切にしようと思えば別にするし、そうでなければ干渉しない。
「嫌いだから殴ってやろうか」なんて社会性のかけらもない思想は持ち合わせていない、ということは留意して欲しい。アブナクナイヨ

ただただ。
ただただ単純に嫌悪感がある、というだけだ。
つまり、初期値が若干マイナスに傾いた好感度メータ―のようなものを僕は持っている、といってもいいかもしれない。
そこから関係性によってはプラスに振り切ることもあるし、マイナスを維持することもあるし、中立になることもある。

僕はこうした人に対する自分の感情が不思議でしょうがない。
これは人間が持つ性質なのだろうか?とも思ったが、別に他人に聞いても知らない人に対して嫌悪感を抱く、とかそういう感情はないみたいだった。
だからこれは恐らく僕自身の性格なのだろうが、しかしこれがどうして生じているのかが分からない。

そもそも人が嫌い、という可能性もある。
確かに、言葉が通じるのに話が通じないことが良くあり、僕はその手のディスコミュニケーションが頗る嫌いであることを考えると、この論理が一定の納得感をもたらすものであるのは間違いなく、検証の方法が分からないという点を除けば答えになりうる可能性を秘めている。
もしかしたら、僕を害する可能性がある(しそうだ、とかではなくする力がある、つまりどんな人からでも殴られたら痛いように、どんな人間でも他人を害する力があり、他人は不確定要素が多すぎるということ)という点も考えられる。これに依れば、死を何よりも恐れている僕が距離を置きたいと思うのも一応筋は通っているように思う。同じ点で大きな哺乳類もそこまで好きじゃない。

人が嫌い、という可能性の他に、”他人”という属性が嫌い、という可能性もある。
これに対して僕は妥当な理屈を持ち合わせていない。
というか、結局人が嫌いにせよ、他人が嫌いにせよ、考えうる原因は共通してしまう可能性が高く、また分離した検証が出来ず、さらに言えばこの二つは根本的に同一であるとも言えるように思えるので、分離して考えるのはナンセンスなのかもしれない。

何にしても、僕は以前からこの感情に対してなぜ生じるのかを考えている。
電車の中で、帰りの道中、買い物途中、ふとこの感情を自覚する度にその理由を考えている。
こうして自分の内的な動作について考察を巡らせる行為は好きなのだが、如何せんそれに対する深い知見を持ち合わせていないため、いつも表層的な考えに耽ってしまう。
認知心理学などを学べば、何かしら深い洞察が得られるだろうか?

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