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どうせ2日で終わる日記-61-(ワンパンマンの213話に滅茶苦茶感動した話)【7/18-7/24】

気が付いたらnoteのエディタが新エディタになっていた。
新エディタは以前から日記を書くたびにnoteから勧められていたが、旧態依然な思考回路の僕は新しいものに移す気力も無かったため放置していた。
しかし、今回日記を書こうと開いてみたら新エディタに移行していたため、これを機に新エディタに移行することにした。

noteは機能が少なくて書きやすいな~と思っていた半面、はてなブログなど他ブログ媒体ではある小見出しや大見出しの区別や、色が無いのは少し不便だと思っていたのだが、新機能として見出しの種類が増えていたので、それは素直に喜ばしかった。
ついでなら、文字色指定もできるとありがたいとは思うのだが、文字色ができた瞬間note特有のお洒落さが無くなり、古き良きテキストサイトが群雄割拠犇めき合っていたような時代のビジュアルへと逆行するような気もするので、難しいところだ。


ワンパンマンの213話に滅茶苦茶感動した話

(※ネタバレ有り)

今週、YJ版ワンパンマンの最新話が更新された。
ワンパンマンは以前から読んでおり、今週も最新話が更新されたのを確認してすぐさま読みに行った。

そして、僕は感動した。

大いに感動した。


……一応言っておくと、僕が感動したのは、サイタマがまだまだ強くなることでも、みんなが死ななくて済んだことでも、ガロウがタレオをちゃんと想っていたことでもない。
僕は、この話の「理屈の無さ」に本当に感動した。

こういうとまるで悪口のように聞こえるかもしれないが、断じてそうでは無い。
僕は、この「理屈の無さ」こそが漫画の神髄だと思っているのだ。

……とは言っても、僕の考えが一般的ではないことは理解しているので、「理屈の無さ」がどうして素晴らしいと思うのか、理屈で説明しよう。


僕は以前から、どうにも最近の漫画は理屈が重視されすぎているのではないか、と感じていた。
さらに言うなら、「理屈を求められすぎている」のではないか、と感じていたのだ。

勿論、それ自体が悪い事とは言わない。そもそもそんなものに良し悪しは無い、というか基準によって変わる曖昧な尺度の代表例である「良し悪し」は僕は好きではないので、自分では修辞的使用以外では使いたくはない。
緻密に練られたストーリーは読者の心を動かすし、正確な情報はその分野についての啓蒙の役割も果たし、漫画の社会的重要性を底上げしてくれる。

ただ、僕はこの「理屈」というものは毒にもなると思っている。

何故か。
この「理屈」の部分で大事なのは、いかに読者がその理屈を自身の中で理解できるか、という一般的な合意がある、ということである。
例えば、科学的な知識であれば、その情報が正確であるほど読者の中で筋の通った情報となり、漫画の提供する「理屈」が心地よさを生み出す。
例えば、主人公のとる戦略がスマートであれば、読者はその「理屈」に感心し、より一層のめりこむかもしれない。

しかし一方で、この「理屈」が散りばめられていればいるほど、そのストーリーに対するリアリティラインが同時に上昇するのではないか、と考えている。

具体例を挙げよう。
例えば、ある漫画は物理法則もまるっきり無視したようなギャグ漫画だ。舞台も現実とは違う異世界で、主人公の性格も滅茶苦茶だ。
しかし、我々はそれを変だとは思わない。
主人公がたとえ、深く慕っていた兄弟を突然殴り出したとしても、我々はそれを消化することができる。
ここで、反対の例を挙げる。
その漫画は現実世界を舞台としており、主人公もごく一般的なサラリーマンだ。題材も科学の啓蒙のような、科学者の仕事をテーマとしたヒューマンドラマだとする。
この時、主人公が突然慕っていた上司を殴り出したらどうだろうか?流石に驚くのではないだろうか?

あまりにも極端な例かもしれない。
しかし、では例えばリアルな方の漫画で、ギャグ漫画の方と同じく主人公の性格が滅茶苦茶だとしたらどうだろうか?
これもやはり違和感が出る。
では、主人公がトラックに轢かれても「いて~~~!!」で済むような世界になったらどうだろうか。
すると突然、この世界のリアリティラインが引き下がり、途端に主人公の性格が消化できるようになる。

勿論、このような設定を作品に仕上げるためにはそれ相応にそれ以外の部分、つまりトラックの物理法則と主人公の性格以外の部分も引き下げないとリアリティラインがちぐはぐになり、そもそもお話として破綻するので上手くやる必要がある。

ここで言いたいのは、物理的な「理屈」のリアリティラインと精神的な「理屈」のリアリティラインが一致している、ということだ。
つまり、その作品が現実に寄せれば寄せるほど、我々は我々の理解できる精神的な反応、つまり読者が理解できる程度の心の動きしか受け入れることができなくなってしまう。
曖昧に言えば、要するに「ああ、こういう世界なのね」と読者がスイッチを切り替えリアリティラインを滅茶苦茶引き下げると、突然主人公の心の動きも「そういうものなのね」と受け入れることができるのだ――!


……という仮説を僕は持っていた。
これが正しいかどうかは検証が必要だが、少なくとも僕はこのマインドでこれまで生活し、色んな作品を楽しめている。

……マインド、と言ったように、実はこれ、恐らく意識的にやらないと結構受け入れが難しかったりする。
極端に振り切っていれば受け入れやすいのだが、意外と中間点を取るような作品が多いのと、各事物に対する解像度が人によって大きく変わるので、解像度が高い人ほど感じるリアリティラインは下がりやすいなど、個人差もあったりするので、自分の中で意識的に作品を受け入れる方向にシフトしていかないといけない。

このマインドを持つことの利点は、何より楽しめる作品が多くなることだ。

どの作品でもありうることだが、「このキャラのここの言動意味わからん」みたいなので、今まで熱中していたのに、突然冷めることがある。
実際インターネットの感想でも、こういった感想を度々見受ける。
しかし、予めリアリティラインを引き下げておくことで、「ああ、こういうこともあるんだ」程度に受け流すことができる(ことが多くなる)。

作品において、没入感というか、キャラクターの言動に共感できるかどうか、というのは一つの楽しむポイントとして重要である。
しかし、作品を共感性という観点に重点を置いてみるのは危険、というか可能性を狭める行為でもあると思う。
僕は「週末わざわざジムに行って体を動かす気持ち」がこれっっっぽっちも分からないし、「はちゃめちゃに高い腕時計を何本も買う気持ち」も分からない。
けれど、これらは実際に現実にいる人間が、何らかの心情をもってして行っていることであり、「リアル」な心の運動である、と言える。ただ、僕が経験したことのない気持ちなだけなのだ。
そういう観点でいうと、作中のキャラクターの言動が自分にとって理解不能だとしても、それは自分の知らない心の運動なだけであり、そういうのもあっていいだろう。
そういう気持ちになる為の受け入れ態勢を、上で説明したマインドは支えてくれる。
もしかしたら、「多くの人間が理解できない行動の心的理由を的確に描写した作品」と評される作品も、「多くの人間が理解できるような心的理由に置き換えた」だけで、実際の心の運動はもっと突飛でほとんど理解できないようなものかもしれない。
僕は世界は知らないもので溢れており、それは人の心情も同様であると思っている。経験どころかその気持ちに対する知識すらない、と言う状況は必ずある。こんな複雑系の極みのような生理反応が、多様で無い訳がない。
僕が一生を終えるまでの間に出会う心情なんて、ほんの一握りだろう。そう考えているからこそ、こうした理解できない心情も「そういうのもあるんか」といったん受け入れておいた方が、メリットが大きいのだ。

作者側の立場に立てば、勿論、自分が説明できないような心情や言動は作品に取り込むべきではないだろう。
なぜなら、それは「言動に共感できない」というどころか、「そもそも話が理解できない」という話の崩壊につながりかねないからだ。
少なくとも作者くらいは、その作品に対して理解を示してあげるべきだ(共感するかどうかは全くの別)、と思っている。

さて、そういう訳で長くなったが前振りはここまでだ。

本題の「なぜ僕がワンパンマン最新話で感動したか」なのだが、これは端的に言えば突然時間を跳躍したからだ。
もっと言えば、反粒子が云々して時間を跳躍したからだ。
僕はこれが出てきた瞬間、この作品のリアリティラインが急激に下がって、なんでも受け入れる体制になっていた。

元々ワンパンマンはギャグ漫画であり、僕の中でのリアリティラインも低かった。
しかし、どうにも最近はシリアスな描写が多く、事態もこれまでになく深刻だったことに加えて、この世界のリアリティラインを引き下げる一番の役であるサイタマの登場が少なかったこともあり、知らず知らずの内にこの作品に対するリアリティラインが上昇していた。

しかし、突然ガロウがサイタマに自分の拳を教えたかと思うと、その説明として反粒子だなんだと出てきて、思わず「は、ははは反粒子!??!?!?!??!?!」と驚いてしまったし、なんか理屈っぽいこと言っている割に何の説明にもなってないし、なんなら時間跳躍まで発展してしまったので、「じ、じじじじじ時間跳躍!??!?!?!?!?!??!?!?!?因果逆転!??!?!?!!??!?!??!」と腰を抜かしてしまった。
もはや理屈まで跳躍してしまい、この理屈っぽいのに全く理屈が無いのは男塾しかりギャグ漫画あるあるなので、一気にリアリティラインが引き下げられ、シリアスな雰囲気が一変し、ギャグ全振りの路線に修正されたように思えた。

僕はこの展開にいたく感動した。

普通一度シリアスになったら、問題解決して日常に戻ったりしてからシリアス展開を解除しない?
シリアスのクライマックスでギャグ展開に戻すことある???
いや、戻してたんじゃない。我々が忘れていただけなのだ。
その丁度忘れかけた段階で、こうして元の姿を見せるこの手腕は本当にすごい。
仮にもっと理屈をはっきりさせて時間跳躍をされたら、恐らく僕は展開に納得できなかった。
それをこんな説得力の無い理屈で説得力を持たせるのは、本当にすごいと思う。

木星に行っちゃったあたりは、まだ「まあサイタマだしな……」くらいで自分の中で理屈が通ってしまっていた。
しかし、物理現象にまで言及すると、もう理屈が吹っ飛ぶのだ。
これはどの漫画でもそうだが、我々の知っている物理現象と違う現象を提示されると、ハチャメチャに理屈が吹っ飛ぶ。
これはただ現象として見せれば良いのではなく、色々とテクニックが必要だと思う。
こういうぶっとび理論はTwitterでも定期的に何かしらの作品でバズり、多くの人間が「ああ、こういう作品なんだな」とリアリティラインを引き下げることに成功しているので、割と有効かつ有名な手段なのかもしれない。男塾や彼岸島なんかが割とその部類だろうか?

僕としては、漫画は、というかそれを読む我々が、もっとこういったものを受け入れる体制になった方が良いのではないか、と思っている。
なぜなら、その分多様な漫画が読めるからだ。
「こいつ、凄いこと言うな」と思うようなキャラクターこそ、僕は惹かれると思う。

最近の作品は、僕個人の感想でしかないが、どうもこの理屈をちゃんと固める方向の物が多いように思える。
これが読者がそれを求めているからなのか、作者の傾向としてそれが多いのかは分からない。
分からないが、そういう潮流の中で、ワンパンマンというビッグタイトルがこういうことをしてくれたのは本当に素晴らしいことだと思う。
心情としてもストーリーとしても、理屈は通した方が良い、と言われる昨今だが、僕はそうは思わない。
勿論、それが受けるかどうか、商業的に成功するかどうかは別として、こういう凄い展開や凄い心情というものを描けることこそが、フィクションの強みであり、神髄であると僕は思う。

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