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どうせ2日で終わる日記-71-(モンサンミシェルと私刑、そしてヴィトゲンシュタイン)【10/31-11/06】

前回の日記の最後に、今後の日記の更新が不定期になるということを述べた。
大抵そういった宣言をした場合、次回をこれまでと同間隔で投稿することは無い。何故ならば話がややこしくなるからだ。
では何故、今回敢えてこれまでと同じ間隔、つまり前回の投稿から一週間後に投稿したのかといえば、これには深い理由がある。ルネ・マグリットの作品に『イメージの裏切り』という作品があるが、あれはたしかにそこに存在するのは絵であり、「これはパイプではない」という文言に嘘は無い。しかし、それでも我々がそれを矛盾のように感じてしまうのは我々が「”通常”、そこに「これは」と書かれていればそれはそれが指し示す描かれた対象の事物の概念に対して述べられているものである」という認識を前提として持っているからだ。今回の”不定期”という宣言も同様で、「”通常”、不定期と宣言されたらこの次の週はお休みで、最低限次々週以降の更新になるだろう」という認識が無意識的に先行してしまう。しかし我々はこのような言葉の意味を一度として深く考えたことがあるだろうか?僕はこれを読んでいる皆様方に一度それをよく考えて欲しいと思いこのような行動をとった、という訳――だと解釈してくれてもいい。

まあ何にせよ、不定期更新という宣言は取り消すつもりはないので、今後しばらくは更新があったり無かったりする。
……一応補足しておくが、これまでも何回も使ってきたように、別に僕個人的に読まなくても良いと思う部分は上のように段落を変えずに勢いのまま書いている。なので上の読むに値しない文を飛ばした方は安心して欲しい。別段読まなくてもなんらこの後に理解に影響は出ない。したがって、この段落についても別に読む必要は無い。

モンサンミシェルと私刑、そしてヴィトゲンシュタイン

近年、思考力という概念が注目を集めている。
教育の現場においてもこの思考力を重視した教育に重きを置くようになり始めているようで、共通テストではその傾向が顕著に出ているということを耳にした。
基本冷笑主義的な気のあるインターネッツにおいてもこの傾向は変わらないようで、思考力というものが重視されているようだ。

さて、ところで僕にとってこの思考力という言葉はさして好きな言葉ではなく、個人的にはなるべく使用を控えている言葉だ。
理由は二つ。
一つは定義が明らかに曖昧なこと。
もう一つは大抵世間で使用される思考力という能力は、知識という概念で置き換えることが可能だからだ。

思考力とは何なのか。
これは僕の推測でしかないが、恐らく世間一般で用いられる文脈としては、「知識を用いずとも論理的思考によって導ける何かしらの推論力」を指すことが多いように思える。
仮にこのような定義であった場合、僕はこのような能力が存在するかどうかについては疑義を呈さざるを得ない。
というのも、これが二つ目の理由なのだが、そのようなものは大抵の場合知識で置き換え可能、というよりむしろ知識の存在が必要不可欠であるように思えるからだ。

例えば、そのような能力を用いる典型例として挙げられがちな「ひらめきクイズ」を考えてみよう。
さて、こういった問題は知識不要か。
僕は断じて違うと言える。ひらめき問題は知識が必要であり、知識に依存する傾向にある。
そもそもこのようなひらめき問題は問題形式上一意に定まるような答えを持たず、ややあやふやな状態で問いが設定される傾向にある。
こうした問題に慣れている人間は何の違和感も持たずに取り組むことができるが、こうした問題に初めて触れる人間はこれをいわゆる「いじわるクイズ」のように感じてしまうのだろうと考えている。
これは実体験だが、僕のようなクイズプレイヤーからすると「ああ、そういう形式ね、分かる分かる」と思いながら見ていたクイズが、SNSの反応を見るとさもいじわるクイズであるかのように語られていた。
問題は確かにかなりハイコンテクストな内容であり、全然テレビ向きじゃないなと感じたものの、それでも僕にとっては難題だなぁとは思えず、結局時間内に回答を出せずに答えを見た時には「なんで分からなかったんだ」と悔しい思いをしたくらいだ。
そういう意味で、このようなクイズには文脈的な知見を要する。

さて、それとは別の話で、ひらめき問題は知識を使うと解きやすい問題が実はかなり多く存在する。
文字が七個並んでいたり空欄が七個存在すれば、まずは一週間の曜日が当てはまるかを疑う。
二つの単語の変換があれば単語を漢字やアルファベットに直すし、それで見つからなければ単語に別の単語が含まれているか、もしくは何か別の文字をくっつけることで別の単語を作れないかという思考にシフトする。
問題文に「たぬき」や「たすき」があれば単語や文から「た」を抜いたり「き」を入れたりするし、「うがい」や「えがお」、「あまがさき」など中に「が」のある単語には敏感になる。
僕個人の所感では、こういったコツやあるあるを知っているかどうかはひらめき問題においてかなり重要であるように思う。

思考力についての他の例を挙げよう。
例えば、定期的に話題になる「鍋に入れた油が燃え上がっている時に水をかけてはいけない」というもの。
有名な話だし、実際知っている人は多い。
しかし、これについて「少し考えれば分かる」という言論については僕はどうもしっくりこない。
元々知っている人は除き、これを知らない人がこの現象をしっかりと推測するには何の知識が必要か。
そもそもこの現象は油と水の沸点の違いによって発生するものだ。しかも数度程度の違いではなく、何百度という違いだ。
したがって、これを推測するためには、①水と油の沸点、②高温すぎると水は爆発的に水蒸気になること、③水と油の比重差により水蒸気となる際、油は下に押し付けられるのではなく上に飛び散るということは最低限知っている必要がある。
そして更にはそれらをつなぎ合わせるフレームワークを予め持っている必要がある。
熟考するようなタイミングならいずれその結論に行きつくかもしれないが、急を要する事態においてそのフレームワークも持たずにこれらのピースを繋ぎ合わせて正しい推測をするのは難しいと予想される。
したがって、この知識を知っておくべきだ、という論旨は理解できるが、知識が無くとも考えればわかる、というのは少し的外れのように思える。

さて、という訳で僕個人の所感として、いわゆる「考えて分かるもの」というのは結局のところ知識に依存していると言わざるを得ないと僕は思う。
それならば何故このような言説が多くあるのか、と言えばそれは恐らく「常識」という概念に理由があるのではないか、と僕は考えている。
つまり、「常識」とは「誰もが知っていて当たり前の概念」のことであり、基本的に誰しも自分の中で常識だと考えている知識は「知識」として数えていない傾向にあるように思える。
この世界に自転車という物体があるのは常識だし、箸とは食事の時に使用する物というのは常識であり、もはやそれらは知識として数えることすらしない、という感じにだ。
上の油火災の例で挙げた三つの知識を見た時、「え?流石に常識じゃない?」と感じた人も多いだろう。
大人として知っておくべきだ、というようなべき論は今は置いておくとして、僕はこうした常識も知識でありうると考えている。
それはつまり、小さい子にとって自転車とは得体の知れない物体であり、箸とは何かよく分からない棒状のものでしかないからだ。そしてそれが何かを知った瞬間、それは未だ常識の要件に足らず知識として我々の中に存在しているのだ。
それは子どもだから、という意見もあるだろうが、生物として考える時子供と大人の境は多くの生物で非常に不明瞭だ。というか、そもそもどの定義においても結局は我々の恣意的な擬人化に過ぎず、生命科学的な活動として明確に「子どもですよ~」とか「大人ですよ~」と示している訳ではない。むしろそれは逆で、ある現象を境に我々が勝手にそう定義しているだけに過ぎない。
そういう訳でその境界と言うのは非常に曖昧であり、知識についても同様であると僕は思う。
そして以前どこかで書いたが、知識の入手と言うのは偶然性に頼らざるを得ない部分が多くあり、人生でたまたまそういった知識に遭遇しなかった人は年を食ってもそれらの知識を常識として消化することなく持っているのではないだろうか。
そして恐らくそれは誰しもの中にも存在する――つまり、誰しもいわゆる「常識」として捉えられているものの一つや二つは知らないことくらいあるだろう、と僕は思うのだ。

……色々ごちゃごちゃ言ったが、要するに言いたいことは、常識とひとえに言っても、それはお前自身の中で常識として消化された知識を常識と言っているに過ぎず、大抵の場合そのような知識は他の人も常識として消化している確率が高いからさも「誰でも知っている事実」であるように感じるだけに過ぎない、ということだ。
これは僕個人の体験談からも言える。
これはTwitterでも話したのだが、以前大学のとある授業で軽いレクリエーションがあった。
内容としてはどこか一つ国を選び、そこの観光ツアーを考案し、旅程と予算をまとめ簡単にプレゼンしろ、というようなものだ。
僕は適当に名所が多くて紹介しやすそうなフランスを選び、ツアー内の立ち寄り地の一つとしてモンサンミシェルを組み込んだ。
僕は、ただモンサンミシェルに行きます、だけではつまらないので、大学生レベルであまり知られてい無さそうな知識として「モンサンミシェルではオムレツが有名」という情報を組み込み、それをフックの一つとし聴衆を引き付けようと考えた。
中々良い誘導ができたと感じた僕は、意気揚々とプレゼンに挑んだ。
「――という訳で、続いてはあの有名なモンサンミシェルへと向かいます。実はこのモンサンミシェル、オムレツが有名で麓には有名なお店が存在するんですよ。それも日本で見るオムレツとは少し形が違い――」
ここで聴衆の反応を見る。食いつきがかなり良ければそのままオムレツの話に付け足す情報があったからだ。普通に「ふ~ん」程度だったらここはさらりと流す予定だ。
ところが、聴衆(とは言っても3人程度の小さなグループ内での発表)の様子を見るとどうもおかしい。
なんだか微妙というか、やや混乱混じりの興味、といったような様子を示していたからだ。
僕はその反応は想定しておらず、思わずあたふたしてしまう。
結果、プレゼンは準備したにもかかわらずそこまでうまくいかなかった。
僕はしょんぼりとしたままメンバー内での講評に入った。
すると、そこで驚きの内容を耳にした。

「モンサンミシェルという世界遺産があることを知らなかったので、非常に勉強になりました」

その時僕は閃いた。
なるほど、この世界に一般的に認識されているような「常識」というものは存在しないのだと。
僕の中ではモンサンミシェルという存在は常識だったが、他の人にすれば全く聞いたことも無い興味深い事実であり新鮮な知識だったのだ。
そこから僕は常識と言う言葉を使うことも控えることにした。

似たような話は他にもいくつか経験があり、例えば高校生に生物を教えている時に補酵素の話になり、興味を惹くつもりで「コエンザイムQ10のコエンザイムは補酵素の英語なんだよ」と教えたらそもそもコエンザイムQ10を知らなかったり、他学部の教員に自身の研究の話をした際に、てっきり知っているものだと思ってハダカイワシという魚の名前を挙げたら知らなかったりと、その手の話題には事欠かない。
インターネットでも良くある。僕としてはニューラルネットワークの仕組みは「常識」だし、生態系保全の目的も「常識」だ。
しかし話してみると、意外とそれは決して人口に膾炙した知識で無いことを僕は知った。
そもそもこの「人口に膾炙した」という表現すら大してメジャーな表現ではない、らしい。

大分話が逸れた、というか思うままに推敲もせずに書いたせいでゴチャついた話になったが、結論としてはそもそも思考力とは知識に大きく依存しているものであり、ただ使用する知識が我々が知識と認識しない領域である「常識」に存在する知識であるがゆえに一般的な思考力に関する錯誤を引き起こしている――というのが僕の思考力、ひいては知識についての哲学だ。
こういう結論になるならば、思考力を鍛える一番の近道は知識を教え込むことであり、やけに問題文を複雑にする代わりに幅広く知識と経験を蓄積させるべきなのではないかというのが僕の教育に対する哲学だが、僕は教育論など微塵も知らないのでこの話はやめておく。
……まあ恰好つけた表現をしたが、結局は僕の経験から来る推論に過ぎない。とはいってもそもそも推論とは自身の知見に基づくパターン予測でありそれはつまり知識を運用s(ry


さて、という話が実は前置きで、その上で日記なので僕の身の上話を一つ。

最近、何を論じるにしても恐怖がまとわりついている。
それは僕の無知に対する恐怖だ。

上でも述べたが、僕は教育論など全く知らないのに教育のべき論を書いている。これを書いている間、常に冷や汗が止まらない。
僕は哲学に詳しい訳でも、脳の構造に詳しい訳でも無いのに、個人的経験から勝手な推察を生んで5000文字近くペラペラと喋った。

僕の中では基本的に上述したような認識なので、知識が無い状態で行う推論は基本外れな方向に向かうか、すでに先人が辿った道の半ばで止まるかどちらかだと思っている。
したがって、何の知識も持たない僕がペラペラと喋った内容が、詳しい人が見たら一笑に付すような内容ではないか、と戦々恐々しているのだ。

その思想は最近は比較的Twitterにも表れている。
大学受験生時代から割と最近くらいまで、よく深夜になると理性が暴走して主にインターネットへの恨みつらみを呟いていた。
そのせいで「インターネット小言おじさん」などという不名誉な称号が与えられたくらいだ。与えられたときはまだ未成年だったのに……。
ところが最近になって僕はその類のツイートを控えるようになった。本当にここ最近だ。
それは、僕の無知を悟ったからだ。

これは別にソクラテス的な「無知の知」、つまり「自分は何も知らないんだ、ということを知っている」と言うことではなく、どちらかと言えば「僕はこれを知らないし、あれを知らない」と具体例を挙げるようなものに近い。
僕が良く考えていた論として、「国家に属する利益を享受しているのだから、公共の福祉と法に従属すべし」というのがあった。
僕はネットリンチのような行為は好まないため、そのような行為を見つける度に「そもそも私刑は法的に禁止されており、するべきではない。される側も悪いというような論は、その側が例え何かしらの犯罪を犯していたとしても一市民にそれを裁く権限は無く、そのような違法行為は例え義憤に駆られても行うべきではない。なぜなら我々は国家に属し、その恩恵として交通や治安を担保され、生活を保障されているのだから、恩恵とトレードオフとしての法の順守はしなければならないからだ」という論を展開していた(一人で)。
しかし、よく考えれば人に与えられた権限というものについて僕は深く知らない。せいぜいホッブズ止まりだ。そもそも我々に与えられた権利とは何なのか。その存在保障は何なのか。権利を国家が規定するのならば、その国家とはそもそも何なのか。国家とは何かを知るためにはその成立から現在の状態まで知る必要がある。国家がある種の集団に過ぎないのだとしたら人間にとっての集団について認識する必要があるが、それは何なのか。生物にとって集団とは何なのか。その意義と我々の生活形態に大きな差異がある予感がするが、それはどのような定義から変遷をたどったものなのか。恩恵とトレードオフというが、その根拠は何なのか。恩恵の享受と法の順守の関係はどこにあるのか。そのためには法についても知らなければならない……

……というように、一人で勝手に脳内口論が始まり、そして知識不足ゆえに議論が進展しないというところに行きついた。
そして思い返せばそれは他の場合でも同様だった。
いずれの場合も、深く突き詰めると必ず僕の知識不足に突き当たる。
こうなると、生じうる疑問に対してちゃんとした回答を用意できないのに論を用意することに恐怖を覚え始める。
そういう訳で、最近は口を慎むようになった。
語りえぬものについては、沈黙しなければならないのだから……。


ここからは後書き。どうにも本文と後書きの境界が分かりにくく、最近はどうしたものかと考え始めている。
この日記を書いている途中にも、自身の無知さを痛感する場面が幾度となくあった。
最たる例はヴィトゲンシュタインの「語りえぬ(ry」だ。
個人的にはこんなクリシェな表現で締めたくは無かった。
状況に合うことは合うのだが、あまりにも使い古されすぎて、ただこれを述べるだけだとどうにも薄っぺらい評論のように感じられてしまう。
まあ実際のところただの日記であり、その薄っぺらい評論ですらないのだが。
それでも、もう少し似たような状況を異なる知識で表すことくらいできるだろうという直感は働くものの、それに該当する知識が出てこない。
そもそも『論理哲学論考』でさえエアプなのだから、これはもはや僕の中にそのような知識が無いと考えた方が良いに違いない。
こんだけダラダラと書いて、結局感じたのは自身の見識の狭さだけだったというのは何かこう虚しいものがあるが、まあ逆に言えば自分が普段思っていることだけをつらつら述べているのは日記という概念に適合しているともいえる気がする。
そう考えるとなんだか元気が出てくるので、しばらくはそう考えつつ、知識を蓄えてこうと思う。

それでは

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