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【INTERVIEW#2】森林と人の暮らしの関わりの変化とは。ーー20年以上、森を拠点に活動をつづける萩原茂男【NPO法人 森林楽校・森んこ】


おおい町の暮らしのこれからを、まちの人たちと一緒に考えていくインタビュー連載。第二回目のゲストは、森林を拠点に約20年間活動をつづける萩原茂男さんです。おおい町の名田庄で長年林業に従事し、現在は人が住まなくなった無住集落でカフェや里山体験を手掛けている方です。

そんな萩原さんは「森林と人の暮らしのバランスが崩れてきている」と言います。森と人の暮らしのあいだで、どんなことが起きているのか。お話を伺っていきましょう。

萩原茂男(はぎはら しげお)
1959年生まれ。大阪府出身。38歳で福井県おおい町の名田庄へ移住。森林組合で林業に従事した後、NPO法人 森林楽校・森んこを立ち上げる。無住集落を盛り上げる「OISAKO夢充集楽プロジェクト」では空き家を改装し、カフェや一棟貸しの宿を運営。また、「野鹿プロジェクト」では、鹿と森と人の暮らしがバランスよく成り立つ環境づくりに取り組んでいる。

森林のバランスが崩れてきている。

ーー萩原さんが手がけられたカルチャー誌に「鹿の暮らす森林のバランスが崩れた」と書かれていたのが印象的でした。森林の現状を教えていただけますか?

(萩原)おおい町では今、とくに野生の鹿の急激な増加が問題視されています。鹿が山を下りて、里山の集落で暮らす人たちの農作物を荒らしてしまう。そうして農作物の被害が大きいもんだから、毎年約1,000頭の鹿が焼却処分されているんです。

鹿が人里まで下りてくるのは、過疎化によって増加している休耕地が鹿のエサ場になっているからなのかもしれない。また、森林の保全が不十分で山の下草が減ったことも影響しているのかもしれない。はっきりとした原因はわかっていません。

森のなかの下草が減っている

ーー年間1000頭も。

そうなんです。人の暮らしを守るために、それだけの鹿を処分していいのかは疑問が残りますよね。ただ、森林の問題はそれだけではありません。荒廃した針葉樹林も全国的な問題になっています。

針葉樹とは、スギやヒノキなどの葉が尖っている木のこと。一方で、ブナなどの葉が平たく、横に広がる木を広葉樹と呼んでいます。日本は国土の3分の2を森林が占めていますが、その4割は針葉樹を中心とした人工林です。

これらの針葉樹は、1954年に政府が打ち出した拡大造林政策の後押しをうけ、紙や建築に使う木材を生産するために大量に植えられました。

「あの辺りの針葉樹、若い時に俺が植えたんだよなー」と頭を抱える萩原さん

しかし、その後、外国産材の輸入が主流になったことで、国内のスギやヒノキの木材価格が下がり、林業に従事する人たちが少なくなってしまったために、多くの針葉樹林が放置されてしまいました。

その結果、太陽の光が地面に届きにくく、土壌が痩せている荒廃した針葉樹林が残っているんです。だから、土砂崩れは起きやすいし、昆虫や動物は住みづらくなる。森から川、そして海へと運ばれる水や養分にも影響を及ぼしてしまいます。

ーー森林だけの問題じゃないんですね。

森林は川から海、そして、人の暮らしにまでつながっています。森林のバランスが崩れたら、鹿が農作物を荒らしたり、土砂災害が増えたり、川の豊かさが減ってしまうんです。

だから、もっと多くの人に森林への興味を持ってもらいたい。そのために活動をしているのですが、なかなか難しいですね。

森林に惹かれて移住を決めた。

ーー森林への興味を持ってもらう難しさは、どこに感じられていますか?

現代の人の暮らしにおいて、森に入る機会がないんですよね。ぼくが移住する数十年前までは、山菜を取ったり、薪や炭を作ったりするために親の後ろについて子どもも森に入っていました。もう今は、そんな暮らしをしている人はほとんどいません。

ーー萩原さんも移住してこられたんですね。

そうなんです、38歳まで大阪に住んでいました。

ーーどういった経緯で移住を?

通勤時に電車に乗っていて、ふと「木が少ない環境ってどこだろう」と考えたことがあったんです。思いうかんだのは砂漠、南極や北極、月面と、どこも人が住みづらそうな場所ばかり。都会に住みづらさを感じているのは、もしかしたら、木が少ないからじゃないかって思ったんですよね。

そしたら森林に囲まれた仕事や生活に関心が湧いてきた。森林に関する本を読んだり、休みの日には妻と遊びにいったり、いつの間にか森林ファンになっていました。そして、おおい町名田庄の森林組合で初心者でも林業に携われるという求人があった。それで家族で移住してきました。

ーー森林を目当てに、移住されたんですね。

自然を求めて移住される方は多いと思いますが、ぼくはその中でも森林に惹かれていたんです。

それで林業に関わりはじめると、森林に親しみをもつ人が減っていることに危機感を持つようになっていった。だから、まずは子どもたちが森林で遊ぶ機会を、自分でつくろうと思ったんです。そうして近所の子どもたちと山の散策やキャンプの企画をしたことが、NPO法人 森林楽校・森んこの活動の元になりました。

親子で森の散策と川遊び

ーー森林でキャンプ、とても楽しそう。

評判は良かったですね。福井県の若狭エリアで放送されるケーブルテレビ「チャンネルO」の取材を受けてからはいろいろな団体や学校からの自然体験の依頼も増えていきました。

ーー順調に活動が広がっていったんですね。

実はそうでもないんです。「自然体験なんて薄っぺらい活動はやめよう」と感じていたときもありました。

震災で変わった、自然との向き合い方。


ーー自然体験が薄っぺらい?

そう感じたのは、2011年の東日本大震災が起きたからです。自然が簡単に人の暮らしを壊し、命を奪っていくことにとてつもなくショックを受けた。それで、自然体験という言葉を発するのが嫌になり、活動を半年ほどやめてしまったんです。

ーー「自然は体験できるものじゃない」という感覚だったのでしょうか。

自然の無慈悲さをわかっていなかったんだと思います。

ただ、半年間活動をしなかったことで、色々と気づくことがありました。震災が起きるまでは、自然と人の暮らしは共にあるのにどこか別々の存在、言い換えれば、自然をひとつのレクリエーションのように捉えていたのかもしれません。毎日森のなかに入って、仕事をしていたのにです。

普通の生活をしていたら、自然と暮らしは切り離されてしまう。だからこそ、これからはもう一度、里山に目を向けるべきだと思いました。里山では何百年も自然を維持しながら、人の暮らしをつくってきた。そうした里山と自然の関係を一つひとつ再確認していくことが必要なんじゃないかって。

そうして意識が変われば、見える景色も違うものになりました。川遊びをしていたら、川のつながりの先にあるものが気になり、田んぼを作りたくなった。田んぼがあると、土と泥と水の管理をしないといけないし、肥料やミミズがどう影響するのかまで興味を持つようにもなるんです。

自然と一緒に暮らしているという当たり前のことを、頭だけでなく、身体をともなって確認していく。そんな里山で暮らすという体験を、まずは自分の身の回りで実践していきながら、多くの人に届けていきたい。今ではそう思っています。

ーー里山での体験を通じて、自然と人の暮らしの関わりを身体で感じていく。その場を共有しようとされているんですね。

そうですね。だから、色々なプログラムを作るんですけど、一つのことを教えて、一つのことを学んでもらうようなことはしていないんです。まき割りを体験する場があれば、子どもたちは勝手に考えて、木が湿気ていること、枝の節があることなどに教えなくても気がついていくので。そんな体験を通して、体が覚えていくことが大切だと思っています。

萩原さんが望む、おおい町のこれから。

ーー最後にお伺いしたいのですが、おおい町がどんなまちになると嬉しいですか?

もっと森林に関心をもつ人が増えたらいいなと思いますね。

冒頭の鹿や林業の問題も、森林と関わる人が減っていくほど解決からは遠のいてしまいます。いま山村の過疎化が進んでいるので、問題はどんどん悪化しているんです。まずは川で遊んだり、山の散策をしたりして、森に入る人が増えることを望んでいます。

ーーなるほど。まずは、関心を持つところから。

理想を言えば、その先に親が子どもと森で遊ぶのが当たり前になってほしい。そうなると、その子どもがまた大人になって、次世代へとバトンをつないでいってくれる。そのサイクルが生まれて、僕らみたいな団体が必要なくなったらいいなと思っています。

ーー森で遊んでみたいので、今度、里山体験に参加させてください。

ぜひぜひ。森の散策や薪割りをしたり、窯でピザを焼いたり、田植えをしたり、色々な体験があるので森んこのサイトからいつでも連絡ください。6月はホタルが綺麗に見れますよ。

ーーまた連絡しますね!今日はありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。

編集後記

取材を終えた週末、さっそく萩原さん主催の田植え体験に参加してきました。田んぼの泥に自分の足を突っ込む感触って、あんなに気持ちいいのですね。童心に帰れる体験でした。

また、ぼくも自然を非日常のものとして捉えていることを気づかされました。自然は自分の暮らしと共にあるものというより、週末にリラックスするために訪れる場所だという感覚があったのです。

ただ、自然に囲まれたおおい町で暮らしていくなかで、徐々に自然との向き合い方も変わっていくのでしょう。そうした変化を味わうためにも、里山での活動に積極的に関わっていこうと思います。


撮影・執筆:張本舜奎

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