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巨椋池の蓮見船 その3

巨椋池の蓮見船 その2」に引き続き、本稿では久御山町中央公民館に展示されている「巨椋池の漁船」の考察をさらに進め、この船の出自と、どのような経緯でこうした構造をとることになったかを自分なりに考えてみたい。

構造の特徴

「巨椋池の漁船」の構造では、以下の点が目を引く。

①二枚水押+剣先船
②ハタ(舷側板)が一枚ではなく下部で継がれている
③トダテが一枚ではない

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↑各部材の名称

ハタと水押の接合部
①の特徴については「歴史と民俗 32号 特集 和船」 の、織野英史氏による「二枚水押船ー淀川・大和川水系の主要川船」に詳しい。

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織野氏は、「二枚水押」は淀川・大和川水系の川船の主流であると論じている。

また、巨椋池の漁船では、上の写真のように本体とは別に作られた水押部分が取り付けられたようになっている。
この点は、金沢貞友による宝暦3年(1753)の図面に残された川御座船と同じだ。
川御座船
というのは徳川将軍や諸大名が大阪に置いた川船ということだから、内水面で使用される船としては最も豪華なものだったのだろう。

下の図と写真の丸で囲んだ部分を見て欲しい。
下図:日本財団図書館 船の科学館ものしりシートに加筆

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書き出し-4795のコピー

書き出し-4797のコピー

船体と水押(船首)の接合部のハタ(舷側板)が「く」の字型になっている。上の川御座船がそうなっているのは、ハタ(舷側)の板を上下二段で継いでいて(板の幅を広くするため)、上下のタナ板の形状を変えて「く」の字にしている。こうするのはなんとなく肌合いとして理解できる。この「川御座船」は、全長2240cm(22,4m)、幅260cm、深さが137cmということである。これぐらいのスケールなら、こうすることで接合部の総延長を稼げるし、接合個所を一直線に並べてしまわないことで、力を分散し強度を上げることができる。また、釘の通る個所が一列に並ばないので木材への負担も分散できる。
余談だが、釘は痛し痒しで、釘がないと木材同士を接合できないが、釘自体が木材を痛めるし、さらに時間が経つと、錆びた釘が膨らんで、船を壊すということも起きる。

しかし、「巨椋池の漁船」では、大きさからすると、この「く」の字型の接合は合理的でもなさそうで、「川船の舳先はこういう形で接合する」といった、しきたりや習慣に近いものであったのではなかろうかと思う。
これを作った船大工に聞いて見たいところだが、今となってはそれは不可能。


②ハタ(舷側板)が一枚ではなく下部で継がれている点について。
このことの合理的な理由について、実測した日から今日に至るまで考え続けているが、確信できる説に至らない。
確信が全然持てないが、いくらかの仮説を挙げておこう。我ながら、どれも説得力に欠けると思う。

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↑点線で囲った部材の理由が見当つかない

仮説1 ハタより厚みがあることから、ナメイタ(自動車に例えるとバンパー。当たったり擦れたりする個所に取り付ける部材)のような補強材としての意味合い。
仮説2 大型の船、例えば「川御座船」の上下2枚のタナイタの構造の名残り。機能や制作上の合理性は特になし。形骸化した名残。
仮説3 制作の手順としての理由。例えば、この材自体が型板のような役割をしていて、シキ(底板)の反りを決定し、その湾曲をハタ(舷側)に写す。釘の打たれた順番からすると、まずこの材をハタに接合し、その後シキに接合しているというところまではほぼ確かだ。

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仮説4 この船のシキとハタはやや薄いので、(シキの厚さ=25mm、ハタの厚み=20mm) この二枚を直に釘で接合すると十分な強度が出ないと判断し、より厚みのあるこの材を連結材として入れた。

どれも、この材を使うことで接合部が増えて浸水の可能性が高まるのと、作業工程が増えることを考えると納得がいかない。それでもこの中では仮説4がわずかにありえそうだ。
とは言え、そうだとしてもこの部材からハタとシキに向けて釘を打つことになる。はっきり言ってメッタ打ちでこの部材が気の毒なほどだ。

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トモ(トダテ)

③トダテが一枚ではない

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この構造は、「淀川三十石船その1」で触れた、野崎さんが作った三十石船と似ているようだ。伏見や淀あたりの船のトダテ(船尾)の標準的な作り方なのかもしれない。

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それから、トモ(船尾)を湾曲させた形にするためかもしれない。この船は、船首にも艪床があって、後ろ向きにも進むような使い方の船なので、腑に落ちる。

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丸木船と巨椋池の漁船

前述の「歴史と民俗 32号」で、織野英史氏は「二枚水押船は刳船である二瓦船から構造船への発達の一つである」と指摘している。
 ※巨椋池の漁船は二枚水押船
 ※刳船=丸木船

大雑把だが、和船の構造の展開はこのように言われている。
古代から鎌倉時代まで ー 丸木舟(刳船)=太い木の幹を刳り抜いて作る
室町時代以降 ー 構造船 板材を接合して箱のように作る

近畿地方の刳船については「ものと人間の文化史 98 丸木船」(出口晶子著 法政大学出版局発行)に詳しい。

この本によると、大阪の鼬川(いたちがわ)開削工事の際(明治11年 1878年)に、クスノキを刳り抜いて作られた2000年余り前の丸木船が出土したということだ。実物は第二次世界大戦時に焼失したのだが、幸い絵図と写真が残されている。出土の時点での残存長が11メートル余り、高さ76cm、一箇所の接合部があったとのこと。

クスノキについて、余談。スサノオが船をつくるのにはイヌグスが適していると言ったそうだ。イヌグス=タブノキはクスノキ科の木。

この本にはその刳船の絵図と写真が掲載されていて、これを見ると船体と水押が印籠継ぎで継がれている。

どうして「巨椋池の漁船」が丸木船(刳船)からの発達の一つと言われているのか。それは、制作手順からも説明できるように思う。

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刳船(丸木舟)は必ずしも継ぐわけではないが、大きくしたい場合は継がざるを得ない。

この制作手順は、野天で作ることにも由来するのではないかと思う。これだと、それ程板を押さえつけて曲げる必要もないだろうから。
ハタが水押からトダテまで通っている場合、造船小屋の中で自由にツカセ(木を曲げるための突っ張り棒)をかける作り方でないと難しいような気がする。




巨椋池の漁船について随分思索を巡らせてきた。

次回、この巨椋池の漁船と蓮見船の写真から導く「巨椋池の蓮見船」の設計図を公開したい。

「巨椋池の蓮見船 その4」に続く


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この記事は
*新型コロナウイルス感染症の影響に伴う京都市文化芸術活動緊急奨励金
を受けた調査報告の一環として執筆しています。

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