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おすすめの本「ウルトラ音楽術」

 日本の映画批評の世界に於いて多大な影響を与えた人物の中に蓮実重彦さんがいます。彼の唱えた「表層批評」という考え方があります。びっくりするぐらい雑に説明すると、映画の物語、つまり表層の中で表現を読み解いていく批評の仕方です。たとえば、主人公が車を洗っているシーンがあるとして、表層批評の場合は一旦、その「洗う」という行動の意味や連想させられるイメージを考えるわけです。文学だとロラン・バルトの「テクスト論」なんかが近いかも知れません。
 しかし、表層批評には限界があると僕は思っています。
 その作品を理解していくためには、作品を作った監督を始めとする人々や過去の作品、その時代や原作などにあたる必要があると思います。
 監督やスタッフに聞いてみると、「えっ、車を洗うシーン?あそこは時間が余ったから繋ぎに入れただけだよ」、なんてこともあるそうです。
 ただ、注意すべきなのは、作り手の言葉が全てではないということもあります。監督によっては意図的に真意を応えなかったり、インタビュアーの言葉に引っ張られてしまったり、ということもあります( 日本の3大アニメ監督って前者の要素が強い気がするのは僕だけでしょうか? )。なまじ、作り手に聞いているだけに「これが正解だ!」となってしまうところも厄介です。喋る方にも聴く方にも信用が必要になってくるかと思います。
 どちらも一長一短あると思うんですが、僕は後者のアプローチの方が、より作品の本質に迫れるのではと考えています。
 たとえば、スティーヴン・スピルバーグが子供の頃に両親の離婚を経験していたことを知ることで、彼の脚本に見られる傾向にも気づくことがあります。

 今回読んだ冬木透先生と青山通先生の共著である「ウルトラ音楽術」は、表層ではなく深層に迫っていく1冊になっています。
 正直、ウルトラセブンに関しては歴史が長い作品だけに、かなり研究がしつくされているのではないか、と個人的には思っていましてね。
 そんなセブン研究において、前作の『ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた』での青山通先生の音楽というアプローチは、セブンの味わい方を更に深くしてくれた僕は考えます。
 思えば、僕らはどうしても映像や台詞といった意味が理解しやすいものに注意が行きがちです。しかし、音楽が持っている意味は、時として千の言葉を超える何かで僕らの感情を動かしますし、どんな映像美よりも心の中に居続けることもあります。
 多くの人々の人生に残る音楽を作った冬木透先生の世界が、青山通先生の素晴らしい筆で立ちあがってきます。

【ここからは本編の内容にがっつり触れているので、ネタバレが苦手な方はご注意ください】
 

 第1章 文化に触れることで人は開く



 まず、第1章は冬木透先生が満州で生まれ、広島で作曲家のヴィルヘルム・ケンプの演奏に立ち会うまでが書かれます。
 非常に恥ずかしい話なんですが、僕はクラシックの曲をほとんど知らないので、初めて聴く曲名が出る度にYoutubeやSpotifyで検索して、「ほうほう、こういう曲なのか。いや、青山先生の前作で指揮者や演奏者によって味わいが全く変わることは学習したばかりではないか。他のバージョンも試さねば」とわりと時間をかけて読んだのもあって、実はこの章が僕は一番お気に入りです。
 中でも広島から引き揚げてきた時にウェーバーの「舞踏への勧誘」を聴くところが本当に素晴らしくてですね。
 世界の美しさを感じると共に、「そっちの世界」に受け入れてもらえるだろうか、という不安。このアンビバレントな感情は、新しい世界にやってきた期待と不安も感じます。更に書くならば日本人としての故郷である日本ですが、中国で生まれた冬木先生からすればこの時点では異国でもあったのではと僕は思います。だから、「そっちの世界」への不安と希望があったのではと僕は思いました。

 さらに、赤峰の星空を見上げて、宇宙が被さるような悲しいとも寂しいとも言えない気持ちで何故か涙が出てくるというところも凄く好きで、谷川俊太郎のデビュー作である「二十億光年の孤独」を思い出しました。
 そして、ヴィルヘルム・ケンプが演奏会で「月光」を弾くところも良くて、小説なんかを読む時は場面が頭の中に思い浮かぶと思うんですが、演奏しているところと幻想的な月光の光、そして、音楽まで思い浮かんできました。今、何気なく読んでいるあなたも考えてみて欲しいんですが、読書をしながらシーンだけじゃなくて音楽まで浮かび上がってくる作品ってどれぐらいありますか?
 僕はこの第1章で何度も音楽まで浮かび上がってくるという体験をしました。これは、冬木先生の幼少期から青年期にかけて色々なシーンに音楽があったからだと思いますし、青山先生の語り口の素晴らしさだと思います。
 おかげで僕は「月光」の第1楽章と第3楽章のファンになりました。

第2章 仕事と学業の両立


 今でこそ、大学に通いながら仕事をするというのも珍しくないですが、当時としては結構珍しかったのでは、と思う冬木先生のラジオ東京時代。
 読みながら「いったい…いつ冬木先生は寝ていたんだ…」と心配になるぐらいハードな毎日を送ってらっしゃいました。
 ただ、ここの章ではラジオの仕事を始めたことで、あらゆるジャンルの芸術・芸能に触れて、その中でも一流の人たちの仕事に触れられたというのが凄く重要だと僕は思います。それは、第1章でも感じたことですが、優れたインプットが無いと優れたアウトプットは無いと僕は思います。
 仕事と学業の二つのインプットが後の引き出しになって行ったのでは、と僕はこの章を読みながら感じました。
 

第3章 音楽とは感情表現


 さて、第3章はウルトラセブンの音楽についてですが、多分、セブンの作品や監督についてのエピソードはめちゃくちゃ詳しい人が沢山いると思うので、少しカメラを引いたアングルから印象に残っている部分に注目したいと思います。
 それは、「ウルトラセブン」の仕事の中で音楽でどのように怪獣や宇宙人、そして、セブンをどう描くのかという課題の箇所です。
 その中で冬木先生は「音楽は感情表現だと考えています」と語ります。
 人間だけではなく怪獣や宇宙人にも感情があるのではないか。 
 これは何か「ウルトラセブン」という作品とも通じるところがあると僕は思います。
 たとえば、「ダーク・ゾーン」に出てくるペガッサ星人や「盗まれたウルトラアイ」のマゼラン星人のマヤは、理解出来ない他者ではなく我々地球人と同じようですし、変な良い方ですが、人間らしいとさえ思います。
 重ね重ねめちゃくちゃ詳しい人たちがいるウルトラシリーズについて書くのは凄く勇気がいるんですが、初期のウルトラシリーズは怪獣たちが主役で、後期のウルトラシリーズはウルトラマンたちが主役なのでは、と思います。
 ですので、音楽も怪獣や宇宙人たちまでリーチがあるものになったのでは、とウルトラシリーズど素人の僕なんかは思います。
 本に話を戻すと曲作りのエピソードが凄く面白くて、必ずしも怪獣や宇宙人を見て曲を作ることが出来なかったことや、限られた情報の中で音楽をイメージしていく、というのは、現在だと珍しいのではと思います。
 答え合わせではないですが、改めて各エピソードと音楽を観ることで、更なるセブン体験が出来るのではと思います。

 

第4章 冬木透先生の代表作と人間としての奥行き


 第4章ではTBS退社から現在に至るまでが語られていきます。
 この章で1番印象的だったのが、冬木先生のチャーミングな人柄です。
 「ULTRA SEVEN」という曲の評判が良くて、「あの曲と似たものを」という依頼に「ワンツー」から始まる曲なので、「ツー、ツー、スリー、フォーですか?」と冗談を言うところなんて、非常にウィットに富んでていて、きっと遊び心に溢れた方なんだろうな、と感じました。
 そして、この章に紹介されている曲たちですが、是非一読した後は、曲を聴いてみて欲しいです。
 たとえば、「交響詩ウルトラセブン 第1楽章ウルトラセブン登場」。
 もう何度も不勉強な点を書いて恥ずかしい限りなんですが、僕は初めて聴きましてね。

 1分50秒あたりから、理由も無く涙が溢れてきました。
  
 そして、この章では冬木先生のお父様の写真が登場します。
 ここまで、音楽へ進みたい冬木先生に対して時には反対したり、時には密かに味方になってくれたり、戦後という厳しい時代を生き抜いてきたお父様のドラマも読んできていただけに、お孫さんにあたる岡本舞さんと冬木先生の横で穏やかに笑っている姿は、「ああ、良いところまで家族を運んできてくださったんだなあ」と感じました。
 この章の最後に出てくる冬木先生の「老後を迎える世代の方へ」というところは、人生を送る上で重要な学びが書かれていると思います。
 ううむ、まだまだ勉強していくぞ、知らないものや面白いものに触れていかねばと思いました。

第5章 実は文章を書くヒントでもある


 もう1ヶ月分ぐらいの「恥ずかしい話ですが」を使いそうですが、本当にクラシック音楽の知識が乏しい僕はこちらの章でも初見の作曲家の方や指揮者の方が登場する度に検索して、聴けるものは聴いていくというのを繰り返しました。
 聴くことは出来なかったんですが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮の「運命」のエピソードが印象的で精神が高揚したからこそ、生じた1音というのが凄く印象的でした。
 この章で凄く惹かれたのが作曲の技法に関する話です。
 仕事の依頼の手紙と「運命」のたとえで、丁度良い長さ、「形式」について書かれています。
 テーマを伝えるための丁度良い長さとは何か?
 それが「形式」というものを考えていくヒントになるのでは、と思いました。これは1文1文にも言えるし、一つの文章や記事を書く上でも意識していきたいと思います。

 あとがき 人間も研究も老け込むにはまだ早い


 
 まず、冬木先生の「思い出しの旅」という表現が本当に素晴らしくて、確かに読み終わる頃には地理的な旅ではなく時間的な旅を終えて家に帰ったような満足感がありました。
 そして、青山先生のあとがきが本当に素晴らしくて、冬木先生の言葉から「歳だ歳だ」というのを止めて、冬木先生の年の差25歳から「25年分の新たな人生をいただいた」と意識するようにしたというところは、あと数年で40歳になる僕も、いやいや老け込むにはまだ早いな、という価値転倒が起こりました。
 それはセブン研究にも言えることかも知れません。
 冒頭でセブンが生まれた年を考えるとセブン研究はしつくされているのでは、と書きましたが、まだまだ勉強できる深さがセブンにあるのでは、と思いました。
 セブンの最終回でシューマンのピアノ協奏曲を使った理由とカラヤン&リパッティ盤を選んだ理由を青山先生しか冬木先生に質問しなかったように、まだまだ埋もれている問いが沢山あるのではないか、と。

 これを読んでいるあなたの中の「問い」も、大事にしていつかチャンスがあれば答えてくれる人に聞いてみて欲しいです。
 まだ「問い」が言語化できてなかったり、発見できてなかったりするなら、「勉強」してみてください。僕の経験で恐縮ですが、「勉強」すればするほど、「問い」が生まれてくるはずですから。
 「勉強」する時間?
 大丈夫、僕にもあなたにも「新たな人生」を生きる時間はたっぷりあるはずです。

※ 青山先生の前作「ウルトラセブンが『音楽』を教えてくれた」の感想はこちら!2年で文体ってこんなに変わるんですね…。


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