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宇佐見蓮子はなぜ遅刻するのか

このnoteの目的は秘封倶楽部の風景でお馴染みな「宇佐見蓮子はなぜ遅刻するのか」を、ベルクソン哲学に則って解明するというものである。このnoteを読むのに、ベルクソンも、哲学も知っておく必要はない。できるかぎり丁寧に書いたつもりだ。

「宇佐見蓮子はなぜ遅刻するのか」を問題にするにあたって、ベルクソン哲学を素地にするということを、筆者は書いた。ベルクソンとは、一九二九年にノーベル文学賞を受賞したフランスの哲学者、アンリ・ベルクソンのことである。そしてベルクソンの思想を紹介するにあたって、少しでも理解しやすくするために(筆者自身手探り状態であるにしても)いくつかの二項対立を用意した。

それぞれ「可能性と潜在性」「外延と強度」「量と質」「空間と時間」である。

最後に紹介する概念は「時間」である。時間の哲学こそ、ベルクソンの中心的な主題に他ならないのだが、これが「宇佐見蓮子はなぜ遅刻するのか」、宇佐見蓮子はなぜ人を待たせるのか、に深く関わってくる。


可能性と潜在性

ひとまず「可能性と潜在性」、二つの違いについて述べなければならない。次の引用はベルクソンの位置づける「可能性」についての説明である。

可能的なものは、それが現実化(「現働化」と訳されることも多い)されるといっても、むしろ現実化されたもののほうから後ろ向きに投射されたものにすぎない。可能的なものは事後的な投射であるがゆえに、逆に現実の全体を確定するものとして認識される。

(宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』)

噛み砕いて説明していこう。可能的なものは、一つの「予定」として表される。「〇〇する可能性がある」というのは、「〇〇する」という想定のもとで考えられる。この想定自体が、「〇〇した」という前例のある、あるいは妥当に考えられるものとして、それ自体事後的である。過去に「〇〇した」という事実のもとで、可能性として把握されること。この可能性それ自体が、「事後的な投射」でなければならない。

一方で潜在性は、可能性とは違う論理で動いている。

生命は進化し、新しいものを生み出す。生命がおこなう選択は、予見不可能で不確定な性質をもっているが、「変化しようとする傾向」そのものは決して偶然的ではなく、生命それ自体がそのような傾向をはらむ「潜在性」として存在している。

(同)

潜在性とは本来的に「何が起こるかわからない」ものである。したがって何が生み出されるかもわからない。予見不可能で不確定な性質である潜在性は、可能性のような事後的な投射ではない。可能性が「〇〇する可能性がある」という形で使われる表現であるのに対して、潜在性は何をもたらすかも予見できない。それはなんら固定的な枠組みを持たない。なぜならそれは生成の運動として捉えるべき、パワフルな誕生の過程そのものだからだ。

外延と強度

外延と強度に移ろう。ベルクソンは「二種類の量」なるものに言及している。それぞれ「外延的なもの」と「強度的なもの」である。

まず、外延的なものとは空間的に計測可能なものである。長さや広さ、重さなど、空間的な拡がりの中で定位され、明確な測定が可能な量のことである。定規や秤の目盛りは、他ならぬ空間的な配分によって測定可能になっている。そこで測定とは、重ね合わせの論理を利用した、空間に占める大きさの対比のことを意味するだろう。そして量とは、単位的な大きさがどれだけ空間に含まれるかによって示されることになる。

しかし、強度的なものとは空間的に測定可能な量ではない。ベルクソンは例として「意識の諸状態、感覚、感情、情念、努力」を挙げている。あのときと比べて今は悲しい、嬉しいと判断することはできる。しかし、二倍悲しい、三倍嬉しいということができないように、二倍三倍という仕方で明確に測定されるものではないのである。強度的なものは空間化できない。強度的なものは空間的な重ね合わせの論理を利用できない量である。

空間的に把握される「外延的なもの」が客観的なものであるならば、空間的に把握されない「強度的なもの」は主観的なものであるだろう。一方で、外延的なものに依存して強度的なものを理解してしまう考え方が一般的には根深く存在している。それは空間的なモデルを拡張し、強度的な量を覆い尽くすような発想であろう。

ベルクソンはこの考え方を誤ったものとして排除する。彼によれば、強度的なものはあくまでも強度的なものとして保たれなければならず、外延的なものと混合してはならないのだ。

それはなぜか、段階的に説明しよう。強度的なものを把握するためには、それに付随する外延的な刺激を空間的に測定する必要が出てくる。例えば、心理的な感情の測定を、感情によって触発される空間的な身体を測定することによって行う。空間的な身体とは、感情の例に即せば、感情を司る大脳辺縁系である。しかし、これはあくまでも強度的なものに対して二次的な値を取っただけに過ぎない。取った値は外延的で空間的なものに由来するからだ。この説明は、次の「量と質」によってより一層理解されるだろう。

量と質

「量と質」に移ろう。「二種類の量」と記述されていたことからもわかるように、外延的なものと強度的なものはそれぞれ多数的なものである。外延的なものが多数的であるというのは自明だろう。客観的に数えられる量であるのだから。一方で、ベルクソンによれば、強度的なものも量を持つという。質とは単一的で単層的なものではない。

では、質である強度的なものはいかにして量を持ち得るのか。質的多数性とは、次のように規定されるものである。すなわちそれは、相互浸透的な諸要素が切り離されることなく融合し、異質的状況を生み出していく流れなのである。

質的多数性を説明するのにベルクソンが持ち出すのはメロディーの例である。メロディーがどのように成立するのかを考えてみる。それは明らかに複数の要素(数々の音)を備えている。しかし、メロディーを個々の音に分解すれば、それはメロディーであることをやめてしまう。メロディーとは、複数の要素が分割不可能に連関する総体的な配置においてこそ、メロディーとして存立しうるのである。

量的多数性が分割可能な点で「等質的」であるのに対して、質的多数性は「異質的」な連続性と考えることができる。連続的な流れが等質的であるならば、それは容易に分割されて然るだろう。等質的であるとは、分割してもその諸要素が価値を変えることはないという事情を含意するのだから。

しかし質的な流れとは、そうした分解を許さない仕方で相互に絡み合った諸要素から形成される流れである。だからそれは、単一の次元に並べることのできない異質的なものの連続として記述されるだろう。流れから異質性を打ち捨てて空間的並存を許すならば、それは流れですらなくなってしまう。

ここまで、三つの二項対立を紹介してきた。これを簡潔に記すならば、以下のようになるだろう。

可能性/潜在性:可能性が事後的な投射であるのに対して、潜在性は予見不可能な不確定性を持つ。
外延/強度:外延敵なものが空間的に測定可能であるのに対して、強度的なものは空間的でなく、測定不可能である。
量/質:量は空間的に測定されるのに対して、質はメロディーのような分割不可能性を持つ。量は分割可能な等質性であり、質は異質性の連続である。

空間と時間

「可能性/潜在性」「外延/強度」「量/質」という三つの二項対立が表すそれぞれの位置は、ちょうど「空間と時間」という区分に当てはまる。

ここで時間というものを、ベルクソンは「砂糖水の比喩」を持ち出して説明している。

もし私が一杯の砂糖水を自分に用意しようとするならば、私はともかくも、砂糖が溶けるのを待たなくてはならない。この小さな事実の教えるところは大きい。というのも、私が待たなければならないこの時間はもはや数学的な時間ではないからだ。

(ベルクソン『創造的進化』、檜垣立哉『ベルクソンの哲学』から、引用箇所は檜垣訳)

砂糖が溶けるのを待たなくてはならない以上、時間とは待たれるものである。それは日課表や時刻表に示されるような空間的な時間把握ではない。時間とは、メロディーのように、すべてがまったく一度に与えられることを妨げるものである。

先のように、ベルクソンは時間を空間化して捉える見方を批判し、時間を「潜在性」「強度」「質的なもの」「異質性」のもとに定義しようとした。空間が外延性、客観性、等質性と結びつくものであれば、時間とは潜在性、強度、主観性、分割不可能性、異質性、連続性と結びつくものである。

ベルクソンの狙いは、流れである「時間」を基盤としながら、日課表や時刻表のような客観的時間意識を批判することにあった。この批判は、近代科学が隆盛を誇るにつれてむしろ主流になった時間の考え方に対してなされたものである。批判の対象とされているものは、とりわけ力学や天文学的な意味でいう「時間」である。何時何分に日が昇り、没するという予想は、先に述べた時間の「異質性」を排除する動きに他ならない。時間の空間化は、ガリレオ・ガリレイによる数理的宇宙観によって代表されるものだ。

なぜ宇佐見蓮子は遅刻するのか

ガリレオの数理的宇宙観は、今どの位置にどの天体があるかを予想することができてしまう。それは時間を等質化し、外延的なものとして扱い、客観的な量として捉えるような視座である。日課表や時刻表は、その意味でガリレオ的な数理的宇宙観の成果といえる。

宇佐見蓮子は、現代人の中でも突出した、客観的な時間意識を持っている。宇佐見蓮子は「星空を見るだけで時間と場所がわかる程度の能力」の持ち主であるが、まさに時間を空間化して理解してしまうという時間意識のそれである意味で、これは「ガリレオの眼」である。

ガリレオ的な客観的時間意識のなかに、「待つもの」「待たされるもの」としての時間の意識はない。まさにベルクソン的時間意識が、蓮子には欠けている。一方で、マエリベリー・ハーンが蓮子を「待っている」のは興味深い。しかし、蓮子にメリーを「待たせている」という自覚はないだろう。

なぜなら、宇佐見蓮子はガリレオの眼の持ち主であるから。宇佐見蓮子は時間を空間的なものとして理解してしまう宿命を背負っている。彼女はメリーを「待たせてしまった」という自覚、あるいは、ただ端に「待つ」という観念さえもないだろう。彼女にはベルクソン的な主観的時間意識が欠けているのだから。


参考文献

檜垣立哉『ベルクソンの哲学』講談社学術文庫、二〇二二年。
宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』講談社学術文庫、二〇二〇年。
ベルクソン『創造的進化』合田正人・松井久訳、ちくま学芸文庫、二〇一〇年。


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