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相対性精神学の地図

宇佐見蓮子の相方ことマエリベリー・ハーンの専攻分野、相対性精神学。あいにくだが、それが何であるかを、ここで詳しく論じるつもりはない。というのも、それをやるにはあまりにも紙幅が足りないし、こだわり続けているといつまでも完成しない。ただ、相対性精神学を解釈する上でモチーフになりえるものを、気の赴くままに、勝手気ままに挙げていくだけにしておこうと思う。相対性精神学を知るためのブックガイドのつもりもかねて。

ここでは、相対性精神学との関わりが認められそうないくつかの学術的立場を挙げる。ここで中心に添えられる柱は三つある。紹介するのはそれぞれ哲学、精神分析、神秘学だ。いずれも深く掘り下げながら、それを知るのにふさわしいであろう解説書も連ねていく。ただ、ここに挙げられた諸学説について、私が詳しかったり、また本にしても私自身によって検証済みとは限らない。あらかじめ断っておかねばならない。無責任ではあるが、勝手気ままに連ねていく、それがこの地図案内の目的にほかならないからだ。

それでは、相対性精神学の地図を巡ってみよう。

哲学

「主観/客観」をめぐる議論には、哲学、とりわけ近代哲学をかかすことができない。それはデカルトに始まり、ヒューム、カントを経て、ヘーゲルで壮大な終わりを迎えるとされる。ヘーゲル後にはキルケゴールが現れ、さらにニーチェによって現代哲学が始まる。

デカルト──近代哲学のはじまり

まず、近代哲学の父としてルネ・デカルト(一五九六─一六五〇)を挙げなければならない。デカルトのいう「コギト」こそ「主観」の成立そのもの、「主観/客観」図式の成立そのものであるのだから、デカルトを相対性精神学の系譜に加えない手はない。近代哲学を通してみると、デカルトほど長い思想的射程を持った巨人もいない。

デカルトの著書で挙げられるのは『方法序説』が多い。「我思う故に我あり」がそのまま登場するし、平易な内容で初心者にもとっつきやすい。

ヒューム──因果性の否定

デカルト後に現れた哲学者にデイヴィッド・ヒューム(一七一一─一七七六)がいる。知識の客観性が人間の「習慣」にしか由来しないことを暴いた懐疑主義の哲学者。これほどわかりやすい主張も見受けられないだろう。筆者の考える「客観的な真実は存在しない/真実は主観の中にある」解釈その一。

ヒュームの著書で挙げるべきは人性論(人間本性論)だろう。とりわけ中公クラシックスから出てる人性論の抄訳。ただ、(相対的に見て)あまり華々しい活躍を見せたというわけではないので、ヒュームに解説書の類いは少ない。

同じイギリス経験論、観念論の立場にある哲学者にジョージ・バークリー(一六八五─一七五三)を挙げることもできよう。彼の立場を一言に表現するならば、「物質は存在しない、世界は脳内映像(=観念)でしかない」というものだ。ヒュームはこのバークリーの立場をさらに極化したものといえる。

カント──コペルニクス的転回

べいこんさんの『相対性精神学序論』については、彼自身も明言しているように、イマヌエル・カント(一七二四─一八〇四)の哲学を基調に議論が展開されている。カントは哲学の金字塔であり、後に起こるドイツ観念論という思想的潮流の源流になっている。またカント自身がヒュームからの影響を自認しているように、この解釈はヒュームのそれに似ている。

わかりやすいのは黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』で間違いない。カントは解説書も充実しているのが特徴で、他にも多くの書籍が認められる。

キルケゴール──主体性の真理

実存主義の先駆と呼ばれるデンマークの哲学者。ヘーゲルに抗して、「主体性の真理」を説き、とどのつまり「自分がどうしたいか」「自分が認めるか」こそ重要だと主張したらしい。筆者の考える「客観的な真実は存在しない/真実は主観の中にある」解釈その二。彼については何も知らないので、言及するのみにとどめておく。

ここに挙げるべきキルケゴールの本は『死に至る病』であろうか。いずれにせよ、筆者はあまり大声では語れない。

ニーチェ──現代思想の源流

実存主義の系譜に名を連ねる思想家、フリードリヒ・ニーチェ(一八四四─一九〇〇)は、マルクスやフロイトとともに現代思想の源流として扱われる。真理そのものを転覆しようとする破天荒な企てが特徴的。「真理とは迷妄であるばかりか、人間が打ち立てた制度である」と考え、さらに「ただグロテスクに渇望する〈力〉こそすべてである」とした。筆者の考える「客観的な真実は存在しない/真実は主観の中にある」解釈その三。

ニーチェの著書で挙げられるのは『善悪の彼岸』であるらしいが、岩波文庫版を読んで訳に苦心したので、読むにしても光文社古典新訳文庫でいい気がする。解説書にしてもかなり充実している印象。

ヤスパース──実存開明

精神科医でもあったカール・ヤスパース(一八八三─一九六九)は、理性や科学理論による有限的な方法だけで世界そのものを把握することはできないと考え、無限的な方法である「信仰」と、それに伴う実存開明による世界把握に重きをおいた。筆者の考える「客観的な真実は存在しない/真実は主観の中にある」解釈その四。

新潮文庫にヤスパース『哲学入門』がある。本人が書いた以上、かつてないほど適した入門書であるが、それでも初心者にとって難解であることは否めない。

フッサール──現象学

エドムント・フッサール(一八五九─一九三八)の現象学については、むしろ関連を認めないというほうが難しい。「主観についての学」として表現できるような、現象学という新たな学術運動の創始者。これは「客観的な真実は存在しない/真実は主観の中にある」というよりも、相対性精神学が占めるであろう位置や立場に全体的に相似していて、モチーフとして非常に適しているように思う。正直、他は無視してもよいが、現象学だけはないがしろにしてはならないと感じる。

講談社のまんが学術文庫にちょうど『現象学の理念』があるが、これは漫画で表現されて初心者にも取っつきやすい。他には田口茂『現象学という思考』が平易かつ丁寧な解説をしているので、それを挙げておく。

心の哲学

哲学の中でも認知科学における心を扱う領野に「心の哲学」がある。ここについても作者は詳しくないが、「哲学的ゾンビ」「クオリア」「意識のハード・プロブレム」といったワードは心の哲学における議題になっていて、現代の先鋭的な脳科学がはたして人間の「心」を解明することができるか、を哲学的に吟味している。科学世紀が時代的に近未来であろうこともあって、非常に親和性が高い。

精神分析

精神や心を扱う領野には心理学を外すことができないが、ここでは一般的な心理学とはやや趣向のことなる「精神分析」を挙げてみようと思う。フロイトによって開始された精神分析という手法は、意識に対して沈黙の領域「無意識」があると考え、これを前提にして理論の構築を試みるのが特徴だ。

フロイト──無意識の発見者

精神分析を創始したジークムント・フロイト(一八五六─一九三九)は、ここに挙げるまでもなく東方と深い関わりを持っている。というのも、「無意識を操る程度の能力」の持ち主である古明地こいしの「無意識」とは、そのままフロイトの発明であるからだ。さらに、フロイトは自らの理論で「夢」についても言及している。夢には無意識的な暗示があり、それを解読することは深層心理を明らかにすることにつながる。

フロイトの著作としては『精神分析入門』がある。これは予備知識一切なしで読み始められる精神分析の解説だが、それでも繰り返し反芻を求められるのは間違いない。読書をしない人間には厳しいかもしれないが、読まないと何も始まらないので、ぜひ手にとってほしい。

ユング──分析心理学

フロイトと決別したのち、オカルトに傾倒したというカール・グスタフ・ユング(一八七五─一九六一)は、フロイトの精神分析が人間の「性」に重きを置いたのに対して、人間が普遍的に目指す「権力」のほうに向かっている。人間が共通に持つ神話学的、民俗学的な「集合的無意識」を提唱する。人間は文化のレベルで無意識を共有していると考えたようだ。

ユングについては研究者として名高い河合隼雄の『無意識の構造』を挙げておく。こちらも事前知識なしで読めるように書かれている。

ラカン──ラカン派精神分析

これは半ばおまけ。ジャック・ラカン(一九〇一─一九八一)はフロイトの精神分析を構造主義的に発展させたとして知られている。私がなぜ、この精神分析家を挙げたかというと、彼の示す図式やタームがいちいちかっこいいから。「想像界」「象徴界」「現実界」、「対象a(アー)」、「大文字の他者」など。ラカンはフロイトの精神分析をアレンジして、数学やトポロジーにからめて説明するのだが、これがいちいちかっこいい。

神秘学

シュタイナー──人智学

それはそれとして、相対性精神学にオカルティックな側面があることは確かで、オカルティズムが相対性精神学の系譜であることは明らかだが、巷にあふれる精神世界の書籍は、そもそもそうした思潮を正しく汲んでいるのかさえわからない。なので、こうした神秘学の理論を探るとなると、十九世紀に興った神智学運動の古典までさかのぼる必要が出てくる。

シュタイナーの理論的主著として挙げられるのは『神秘学概論』で、四大主著の一つ。解説書には西平直『シュタイナー入門』を挙げておく。

超心理学──超常現象の科学研究

テレパシー、予知、念力、透視といった超常現象の解明を目指す超心理学は、心霊研究として知られている。超常現象、超能力を科学的な方法によって研究する学問。これについては筆者も詳しくないので、言及のみにとどめておく。

おまけ──科学世紀を考える上で

科学世紀を考える上でモチーフになり得そうなものを紹介していく。

フランス現代思想

一九六〇年代から八〇年代にかけてフランスで興った思想運動。中心的に言及されるのはデリダ、ドゥルーズ、フーコーの三人。これにレヴィ=ストロース、ラカン、アルチュセール、ロラン・バルトも加えられることがある。いわゆる構造主義、ポスト構造主義と呼ばれる思潮。日本ではこの思想を扱った浅田彰『構造と力』が八〇年代に刊行されて難解な内容にもかかわらず大バズり、いたるところで構造主義がマルクス主義と一緒に話題になったらしい。当然「だれかさん」がこの影響を受けていないとも思えない。

フランス現代思想については千葉雅也『現代思想入門』がもっとも平易でわかりやすい。デリダ、ドゥルーズ、フーコーを柱に解説している。橋爪大三郎『はじめての構造主義』では三人に影響を与えたレヴィ=ストロースに言及している。

ソーカル事件

物理学者アラン・ソーカルと数学者ジャン・ブリクモンが、科学用語を哲学の文脈で乱用するフランス現代思想の粗雑さを告発した事件。フランス現代思想の哲学者たちがメタファーとして用いる科学理論の説明を、文脈を大きく無視した形で引用し、皮相な博識ぶりを誇示し、どう見ても漠然としか理解していない科学の理論を長々とあげつらうことをソーカルらは『「知」の欺瞞』で批判している。

ハイデガー

『大空魔術』では、不老不死について「生と死の境界がなくなる。それはネクロファンタジアの実現」と言及されているが、これはそのままハイデガーの本来性と非本来性の区別に重なる。ハイデガーは、俗世に埋もれることで死を忘却した生き方を非本来性と呼ぶ。非本来的な生き方はそのまま頽廃的な生であり、死は一時的に忘却されることはあるにしても、人間にとって決して逃れることのできない宿命である。頽廃でしかない非本来性に対して、ハイデガーは本来性を主張する。死に向き合った生であるところのもの、俗世による忘却に惑わされることなく、ただ死に対峙することで、その中に生を見出す。死を前にしてはじめて人間は生きているのであって、忘却した状態では人間は生きているとはいえない。生きているとも死んでいるともいえない状態とはハイデガーにとって死を忘却した非本来性そのものである。

ハイデガーについては、筆者が気になっている本を挙げるだけにとどめておく。

ベンヤミン

「合成たけのこ」にせよ、情報の価値が「量から質へ」移行したことにせよ、『卯酉東海道』に登場した「リアルとバーチャル」にせよ、ベンヤミンが言及する「アウラ」から着想して説明することができるかもしれない。ベンヤミンは、機械的な複製によって芸術作品のコピーを大量に生産することが可能になった時代にて、オリジナルの芸術作品から「いま」「ここ」にのみ存在することを根拠とする権威=アウラが失われると考え、非アウラ的芸術に大衆参加の可能性を見出す。

こちらも、ベンヤミンについて筆者が気になっている本を挙げるだけにしておく。

まとめ

以上で相対性精神学の地図案内を終わる。途中書籍の紹介について、筆者が読んでもいない本を紹介することになってしまったことについては、痛み入る。始終だいぶ適当に書いてしまった。また、さまざまな哲学、思想、理論、学術的立場が交錯したようになってしまったが、とりあえずフッサールとフロイトとシュタイナーだけでも覚えて帰ってほしい。

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