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新たな足音  ⑥新聞に出ちゃったよ

新たな足音  ⑥新聞に出ちゃったよ

さて、1993年4月に満6ケ月になった長女を保育園に預け、職場復帰した。手がかからず、病気もほとんどしないまま、慣らし保育に突入。もっと、長男の時のように1年間ずっとその成長ぶりを眺めていたかったが、このゼロ歳児の新年度入園を逃すと、預ける事が至難の業になって来る。
良く当時、今もかもしれないが、空き状況によっては、まあそもそも年度途中で空きがあるなんて、奇跡的な事だったが、兄弟を別々の保育園に預けなければならないという事例は、ここそこで見られた。たまったものではない。泣く泣く、娘を手放した。

ハイハイを始めるタイミングも、つかまり立ちする瞬間も、歩き始める時も、第一目撃者は、もう私でなくなってしまう可能性大だったが、やむなし。辛い、悲しい、寂しい、何とあの時の気持ちを表現したら良いのだろう。何とも複雑なものがあった。

が、その分仕事にも没頭した。病弱で、しょっちゅう保育園から「熱が出ました」「具合が悪そうです」などなど呼び出し電話がかかって来た長男も、1歳を過ぎた頃から、免疫が出来たのか、鍛えられ、ぐっと呼び出しが減って来た。元々丈夫な長女の件で、呼び出される事は、本当に稀だった。実にありがたかった。
そうして、戻った文化部で、以前書いたように読書班にと言う声があったので、そちらに配置されるかとおもいきや、やはり、当時2児の母親など、新聞社では珍しく、結局は生活面に戻った。確かに広い編集局を見回しても、はるか上のT先輩も男児一人、サンケイリビングから出向して来ていた経済部のH記者も同様。皆、一人っ子のお母さんだった。我ながら、なかなか稀有な存在だと、噛み締めたものだった。
半年間、育休で休んで迷惑をかけてしまった分もしっかり働かねばと、仕事に邁進した。母は、やっとほぼ普通食で良くなった長男と、まだまだ離乳食の長女のための食事作り、ベビーカーを押しながら、もう1人の孫の手を引かねばならない毎日のお迎えは、本当に大変だったと思う。58歳のおばあちゃん奮闘記である。まだ孫がいない今の私より若い若いグランマだった。

さてさて、生活面は今までご紹介して来たように、本当に記事、企画の幅が広かった。育児、教育、シニア、衣食住、何でもありだった。おまけに自分などは、大好きな演劇まで手を変え品を変え盛り込んで行くので、当時の生活面はとても活気があった。若い記者が増えた事も大きな要因だった。
良く朝の情報番組でやじうま新聞にも、紙面が取り上げられた。そうすると、当時の生活班担当H部長は、すこぶるゴキゲンで、
「いやあ、今日も取り上げられちゃったよ!」と、鼻高々だった。
放送時間は、私は子供たちにご飯を食べさせたり、出かける準備でバタバタしていて、自分で確認する事は出来なかったのだが。

家と保育園と会社と実家の4点をひたすら行き来する毎日が続いた。他に何かしたかなあ、しなかったなあ。しかし、家族が勤続10周年休暇が取得出来る事になり、秋に入って私も遅めの夏休みを取り、長女の初めての海外旅行、ハワイに4人で出かけた。マウイ島からオアフ島に回り、本当に楽しい時間を過ごした。長男は、娘が生まれる前の年にグアムに連れて行ったので、2度目のビーチリゾートだった。
ミーハーな母の選択だと、振り返っても笑える。
そのマウイ島で、私はやらかした、部屋の金庫に財布とパスポートを入れたままチェックアウトしてしまい、タクシーで空港に到着後に気が付き、また、タクシーで戻ると言う失態を演じた。シェラトンマウイに泊っていたので、車で片道30分近くかかってしまった。
オアフ島行きの飛行機は、4席空けたまま出発する事になった。次の便に無事潜り込んだが、うる覚えだが、事情を説明したら、若干の手数料か無料で振り替えてくれたように記憶する。
家族ハワイ旅行は、その想い出が強烈過ぎて、後は何をやったかなあ、と言った感じではあった。マウイ島にはそれ以来行けていない。

そうこうしている内にあっと言う間に時が流れ、年末年始特別紙面の企画をどうするかと言う話が、毎週の生活班のミーティングの中でも出始めた。特別紙面なので、しっかり年末年始を休むためにも、紙面作りの進行も早まる。毎年、皆でああだこうだと、企画を出し合う。毎回難産する。
自分の中でも、何か普通じゃない企画を出したいとずっと考えていた。
ふと、思い立ったのが、保育行政を共に取材したA紙のH記者と、M紙のM記者と自分で、その時の話やこの年のネタについて話をする座談会形式にしたらどうかと言う企画だった。保育園問題で3人力を合わせてから、とても仲良くなっていた。皆ママさん記者同士。腹を割って話せること。
でもまさかこんな企画は通らないだろうと思っていたと同時に、他紙が産経の紙面に記者を掲載させてくれるものかどうかとも考えた。
が、あっさり企画は通り、A紙もオッケーをくれた。が、M社はやはりNGだった。他紙を当たり、日頃、紙面で署名記事を見かけていたN紙のI次長が参加してくれる事になった。

3人集まって、あれこれ溢れ出るくらい話が盛り上がったが、限られた新聞紙面では、本当に掲載しきれるものではなかった。世が今なら、続きはWEBで、って出来たのに。

<写真キャプション>
本名が出ているので、IとかHとか、本文で書いている意味が…

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