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柴田恭兵夫妻がカッコ良過ぎた

9、新たな足音 

ー柴田恭兵夫妻がカッコ良過ぎた
産経新聞社時代に国内出張は、北海道から九州までちょくちょく出掛けたが、海外出張は後にも先にも、一度きりだった。
それは、夢のようなロンドン・リバプールでの時間だった。

文化部に異動になって、最初は希望通りの演劇担当となり、出産まではずっと演劇記者会に所属して、歌舞伎の勉強もしつつ、演劇に関して書いていた。が、1年間の育児休暇が明けると、当時ではまだまだ珍しかったママさん記者と言う特性から、生活面に移る事になり、書き続けて来た。それでも、今まで書いて来たように、折に触れ、生活面にも演劇の要素を取り入れながら記事にしていったことも、少なくない。
その歌舞伎のイロハを教えてくれたO部長は、もちろん、私が演劇大好き人間である事を良く知っていてくれた。ある日の事、突然「神津くん、ちょっと」と、呼ばれた。仕事の指示かと話を聞くと、
「君は、小さなお子さんを置いて、出張する事は出来るか?」
「ハイ、今までも一人でも、子連れでも行かせてもらっていますが」
出張と言えば、1,2泊程度のものかと考えて、即答した。
「いやいや。大丈夫か?いい話ではあるが、何せ長いぞ」
「え!?」

話を聞くと、当時、ミュージカルに関しては活発だったT社や劇団Sの後塵を拝していた大手演劇会社のS社が、その年の秋に向けて、ロンドンで好評を博しているミュージカルを、日本で初めて上演しようと、役者、スタッフを芝居の舞台であるロンドン、リバプールに派遣する。その同行取材というのだ。
「おおおおお!!」
演劇の中でも、最もミュージカルが好きな私が飛びつかない訳がない。今では、もうそのような話は無くなっているかもしれないがかつては、時折、記者を招待する形でこのような招待取材はままあった。演劇に限らない、あらゆるジャンルでこのような形は散見された。

とはいえ、まだまだ小さかった長男を1週間、どうしたものか。またまた実家に世話になるしかない。母の負担がかなり増えてしまうと、考え、とりあえず即答は避け、実家に戻り相談した。
両親は快諾してくれて、晴れて、私は機上の人となった。しかも生まれて初めてのビジネスクラスだった。驚いた。シートといい、食事といい、酒類飲み放題といい、こんなに違うものなのかと感動したものだった。普段頑張っていたら、こんなにステキなご褒美があるのか、という位、舞い上がっていた。もちろん、名だたる俳優陣はファーストクラスを満喫していた。
同行したのは主役を演じる柴田恭兵、三田村邦彦、喜屋武マリー。特に柴田恭兵夫妻の中の良さに大感心した旅となった。その事は、また、後で述べる。

ロンドンに到着すると、更に興奮は高まり、抑えきれないものとなっていた。イギリスは子供の頃、父のブラジル赴任からの帰国時に帰りがけに立ち寄ったヨーロッパ旅行、卒業旅行以来3度目。何よりも、ミュージカル街のウェストエンドが私を奮い立たせた。当時上演していた大好きなアンドリューロイドウェーバーの『アスペクツオブラヴ』、『ジョセフアンドテクニカルドリームコート』の新作から、『ミスサイゴン』などのヒット作まで、マチネも観覧したので1週間に7本のミュージカルを鑑賞することが出来た。
しかも、本場で最高のスタッフ陣。何より素晴らしかったのは主役陣もそうだが、脇を固めるカンパニーの層の厚さだった。そこの誰が抜擢されて主役を演じてもイケそうなくらいの歌唱力、演技力に圧倒された。そこは、当時の日本のミュージカル事情と最も違うところだと大いに考えさせられた。

ロンドンから、芝居の舞台であるリバプールにバスで数時間、移動すると、街の空気は一変した。今はわからないが、当時のリバプールは治安が悪く、取材用のカメラを首からかけていると、「危険だから、手で押さえて」と、街ゆく人たち何人もから注意をされた。意外だった。イギリスでこんなに危険な街があるなんて、と。それでも無事に過ごす事が出来た。
そのリバプールで、現地の『ブラッドブラザーズ』の女性演出家と同行メンバー全員との意見交換の会食の場が設けられた。記者陣と言っても私ともう1人、中年の男性記者と2名が同行していただけだったが。それと、柴田夫妻、三田村、喜屋武ら俳優陣が演出家を取り囲んだ席となった。食事は中華だったので、丸テーブルで話は聞きやすかった。
私は既にロンドンで観た舞台で気になっていた事があったので、率直に演出家に聞いてみた。
「何故、演出があのように暗いのか。私には必要以上に暗く見える」と。
物語は、貧しい家に生まれた双子の1人が裕福な家に貰われて行って、やがて再開して生まれる悲劇を描いたものではあった。ストーリーが重いものなので、もう少しメリハリがあっても良いのではないかと感じていたからだった。演出家の答えははっきりは記憶しないが、そこまで暗くはないと思うと言ったものだったと。感覚の相違と感じ取れた。
驚いたのは、その日を境に、それまでいつも夫婦仲良くべったりで、話を聞きたいと思っていてもなかなかつけ入るスキがなかった柴田夫婦が、とても私に親し気に話してくれるようになった事だった。べったりでもイヤらしさはなく、めちゃくちゃカッコ良くて、絵になる2人だった。それまでは、三田村とは色々話をしていたが、何せ移動バスの中でも手をしっかりと握りあっている柴田夫妻には、どのタイミングで話しかけたら良いか困っていたのだった。
色々話している内に、「僕たちもあなたの言うようなイメージを持っていたのだよね」と、言ってくれて、私にとても共鳴してくれた様子だった。嬉しかったし、自分の感覚は間違っていなかったのだと、確信できた。そして、芝居や色々な話をしていて、とても頭の良い人たちだとも感じた。

何と贅沢な出張だったのだろう。
空き時間には街に繰り出し、買い物三昧もしたが、柴田夫妻は
「今日は何を買って来たの?」などと、突っ込んでくれるようにまでなった。
「黒い皮のジャケットというか、コートです」など、答えて、笑いが起きたりした。留守番をしてくれている家族や、特に長男には大好きな機関車トーマスの母国で、トーマスの絵本からグッズまで買いあさった。結婚を控えていた大学の後輩たちには、ウェッジウッドの本店からカップ&ソーサーの贈り物も発送したりした。
挙句に、自分は荷物が増えすぎて、帰りのヒースロー空港のカウンターでJALから段ボール箱1箱もらい、荷物を詰め込んだのだった。もちろんビジネスだから追加料金はナシ。

この出張で、残念だったのは、柴田や三田村、S社のオエライさんたちが全英オープンの舞台であるセントアンドリュースでプレイするので、一緒にどうかと誘われたのに断った事だ。出張なのだから、それはダメだろうという妙な建前が頭をよぎったのと、当時まだゴルフをそこまでやりたいという感覚でもなかったからでもあった。
今思えば、名門コースを拝むだけでも、出かければ良かったと。まあ、その分さらにウェストエンドで芝居三昧ではあったのだが。

帰国後、数カ月して池袋のサンシャイン劇場で芝居はスタートし、大成功を収めた。似ているはずもない2人が舞台ではそっくりに見えたり。本当に役者はスゴイと、改めて感じた。その際に久々に再開した柴田夫人に会い、お祝いを述べ、取材の申し入れをした。元々、モデルとして活躍された美しい方だった。が、
「私はもう表には出ませんから」と、はっきり。

出張の記事も、劇評も、喜屋武マリーのインタビューも書いたのだが、それらをスクラップしたスクラップブックが今、残念ながら1冊だけ見つからない。必ず見つけ出したいと思っている。柴田とのツーショット写真などのファイルもだ。残念過ぎる。また時間が出来た時に探したい。

1週間の出張から戻って、1番悲しかったのは、長らく会っていなかった長男が帰った瞬間に飛びついてくれると思っていたら、
「ママだよ!」と、駆け寄っても、チラリと私を見ただけで、再び手にしていたトーマスの模型で遊び始めたことだった。あの時の彼の真意は何だったのだろうと、今でも時々思う事がある。
「よくもボクをずっと置きっぱなしにして!!」なのか、それとも完全に母の存在を忘れてしまって、「誰!?」という気持ちだったのか。

息子1歳半過ぎの、秋が深まり始めた頃の話だった。

<写真キャプション>
記事が見つからず無念ですが、当時の芝居のポスター。この後、再演もされ、最近でも別キャストで上演されたりしている。

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