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新たな足音 「神津クン、読書面、どうだ」「それが…」

9、新たな足音  ⑤「神津クン、読書面、どうだ」「それが…」

産経新聞社の文化部には前から書いているように、文化班、生活班、読書班、囲碁将棋班に分かれている。長男を妊娠して、希望して社会部から異動させてもらい、既に文化面で演劇を書き、生活面で働く女性問題、育児、教育、街ネタなど様々書かせてもらって来ていた。お陰で本当に多方面に取材、出張に出かけて、順調に日々を送っていた。
それもこれも、全て長男がスクスクと健康に育ち、2歳を過ぎ、保育園にもすっかり馴染み、家族の協力、部のメンバーの理解などに支えられての事だった。
ある日、やはり新しく社会部から異動して来た、当時から良く知っていてお世話になっていたM部長から、声がかかった。社会部の頃は「カンナ、カンナ」と、呼ばれていた。神津カンナにひっかけての事だったのだとは思う。
いつもとは違い、応接セットに呼ばれて前かがみで、小声で話が始まった。

「神津クン、読書班に異動してくれないか」

当時、読書面も見開きで展開していて、多彩な紙面作りが自慢だった。大変興味ある仕事ではあったが、私には、このタイミングでは行けないかなあ、迷惑をかけてしまうなあという事情があった。

「すみません。今はちょっと行けません。と言うか、迷惑をかけるので、行かない方が良いかと思います」
「そりゃまた、何があったんだ?大丈夫か?話してみろ」

うーん、このような形で話すつもりではなかったのだが、いずれは言わなければならない事だったので。

「実は…」
「ン?なんだ??」

大きく深呼吸を1つして、口を開いた。
「2人目の子供が出来たのです」

M部長、顔を上げ、しばらく人の顔を覗き込んでいた。そして、
「おお、それは、おめでとう!!そうか、また少ししたら、休まにゃならんな」
「はい、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします!」

結局、そのまま産休に突入するまで生活班で頑張る事になった。

そう、妊娠3カ月目くらいだっただろうか。上の子も2歳になったし、自分も30歳を過ぎていたので、そろそろなどと思っていたところだったので、2人目が出来た事は、本当に嬉しかった。
そして、2人目が出来ても、全く、微塵も、これっぽっちも仕事を辞める気は無く、一生この仕事を続けて行くと確信していたのだった。
「母には、また負担をかけるなあ」と、思いつつ。

両親も、2人目もちろん喜んでくれて、面倒を見てくれると言ってくれて、本当にほっとした。
考えたら、長男が生まれた時に父は60歳、母は55歳。母は、今の私よりかなり若く、そんな歳でおばあちゃんにしちゃったのだなあと、改めて考えてしまった。父は長男と干支がちょうど一回り違う巳年で、とても喜んでいた事を良く覚えている。若いおじいちゃん、おばあちゃんだったなあ、と。

その頃には、生活班はすっかり若いメンバーが増えて来ていて、ほとんどが私より陣容になって来ていた気がする。なので、結局、産休・育休を取る1,2人目とも、私になってしまった。恐縮モノだったので
「いつか、君たちも同じ立場になったら応援するから!!」
と、心に誓ったのだった。

時の経つのは早いもので、安定期は過ぎ、お腹はしっかりせり出し、また第一子の時に母が沢山作ってくれていたマタニティドレスを着て、相変わらず取材には飛び回った。その頃、世の中にはなかなかシャレたマタニティウェアなどなく、本当に至れり尽くせりの母には、全く頭が上がらなかった。

そうこうしている内に、暑い夏がやって来て、私は産休に入った。暑いと言っても、当時の日本はここまで暑くなかったと思う。冷えは妊婦の敵だわと、エアコンも極力、温度設定には気を付けていた気がする。
やがて、秋の気配が漂い始めた頃、予定日を過ぎても出て来ない子供に業を煮やし、せっせと近所の多摩川を散歩していた。ある週末に、またお弁当を持っていそいそ散歩に出かけると、いきなり陣痛が始まって来た。「おお、やっとだわ」
実は、この体型なのに、毎度、難産で子供3人とも、必ず出産時に何かしらのトラブルが発生していた。子供たちはすこぶる元気に生まれてくるのだが、私自身が毎回トラブルに見舞われていた。今回もそうだったが、それは後述する事にして。

赤ん坊は、念願の女の子だった。

本当に嬉しかった。

<写真キャプション>
ママさん記者ぶりをいかんなく発揮していた時期もあった。随分恩恵にも被ってしまった。長男は何度も紙面に登場。ありがたかった。

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