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5、昭和最後の暑い夏  ⑨吹き荒れる初出場校旋風 “ミラクル市高”

5、昭和最後の暑い夏  ⑨吹き荒れる初出場校旋風 “ミラクル市高”

甲子園の朝は早い。
取材に当たる私たち産経新聞甲子園取材班も、ほぼ毎朝5時に名高い宝塚荘を出発した。第一試合に東日本代表が組み込まれていない時だけは例外で、もう少し遅く出ることが出来た。早起きは辛かった。一日中甲子園の中を飛び回ると、相当な運動量で、身体中が筋肉痛。起きるとあちこちが痛んだ。私たちが、その時間に出発するために、さらに宝塚荘の皆さんは早起きして、支度をしてくれたのだと思うと、本当にありがたい事だった。以前も書いたが、なかなかのオンボロ荘だったが、朝食など食事はとても美味しかった。特に最終日のサーロインステーキは、忘れる事が出来ない思い出の1つ。
「さすが神戸ビーフ!!」
ジュウジュウの鉄板に乗せられてサーブされた横長のステーキは、いつまでも熱々でいただけた。

おっと、話を夜から朝に戻す。
早朝に出発すると、甲子園には、6時前後に着いてしまう。でも、その時間を越すと、交通渋滞が始まってしまうから、やむなしだった。
私は、この朝早い甲子園が大好きだった。
今と違って、33年前のグラウンドの空気はとても爽やかで、涼やかで。得点ボードの裏側から朝日が昇って来る様は、今も時々思い出す。グラウンドキーパーの方々が整備を終えると、同じく相当早くから到着している第一試合の選手たちが、美しく整列しながらアップのために走る姿を、じっと見ているのがとても好きだった。
本当に美しい、神聖な場所だと改めて思ったものだった。
ここで、日中はあんなに熱い闘いが展開され、一喜一憂し、涙し、敗れた者は去らなければならない。

1つのエピソードがある。
この大会から、甲子園の土を持ち帰る事が禁じられた。禁じられても、皆やはり多くの選手は持ち帰っていた。自分が望まなくても「周りに頼まれて」派も、少なくなかった。結局、70回記念大会で禁じられはしたものの、30年以上経った今も、選手たちは持ち帰っている。
そんな中、この大会、グラウンドキーパーから特別な配慮があったのだった。が、せっかくなので、それは甲子園話の最後に書きたいと思う。もったいぶっていやな奴だ。

今はなかなか、初出場校が勝ち抜いて、上位進出する事は難しくなって来ている。いわゆる野球学校とぶつかってしまうと、無残な大差で敗れて、甲子園を去ることが珍しくなくなった。いや、むしろ1,2回戦はこんな試合が増えてしまった。かつては、蔦監督率いる徳島・池田高校の“さわやかイレブン”や、甲子園の思い出で書かせてもらった新居浜商業など、初出場でものびのびと活躍して、甲子園ファンを沸かせていた。最近は、本当に常連校の一角を崩すことは難しくなって来ている。
この昭和最後の夏には、そんなぽっと出の文武両立の公立学校があった。
2年前の主催のA新聞社が大々的に展開していた甲子園の思い出企画にも登場して来ていて、とても嬉しい気持ちになったものだった。

埼玉県代表、浦和市立高校。
プロゴルファーを目指していたという変わり種、中村三四監督が率いる文武両立の公立校だった。宿舎でもしっかり勉強時間は確保して、普段の練習時間が午後7時を過ぎると、保護者からクレームが来る。選手の全員が、進学を目指していた。エースの星野豊はカーレーサーの星野一義の遠縁にあたるという話題しか、最初はなかった。

が、試合を重ねるにつれて、彼らはいつの間にかこの大舞台の中心に立ち始めた。
彼らをたたえる当時の新聞の見出しは、産経に限らずこのような感じだった。
『見てくれ、これが市高野球!』、『吹き荒れる浦和市立旋風!』、『浦和市立 もう止まらない』、『ミラクル8強 浦和市立“ワッショイ”進撃』、『のびのび野球でベスト8へ』、『浦和市立はつらつ快勝』…などなど。

初戦、佐賀商戦前には、実に13年ぶりに夏の甲子園の試合が順延になった。開会式からすでに日にちがかなり経っており、宿舎生活に疲れが見えて来ていたので、監督判断で一度、故郷に戻ったのが功を奏したのか、一回戦は快勝。小柄な9番鬼塚信次遊撃手がラッキーボーイとなって、試合を決めた。5-2初戦突破で、すでに中村はグッと来るものがあり、涙を抑えきれない様子だった。そんな、ここで監督が感動してしまうような、ごくフツーの公立高校。
その後、快進撃が続く。
二回戦では関東の強豪、茨城・常総学院に6-2と快勝。常総の名将・木内幸男監督に
「相手投手は失投が少なかった。やはり甲子園で勝ち抜くにはいい投手が必要だ」と、言わしめた星野の好投が光った。

続く三回戦では、延長10回の末、同じく関東の名門、宇都宮学園(現・文星芸術大学附属高)を2-1で、撃破した。試合を決めたのは、169センチと小柄で華奢な4番・横田だった。同校にはこの大会の2年の夏に対戦、2-8、3-14と大敗していた。

ベスト8に進出した初出場校は、浦和市立だけ。東日本代表は、浜津商業と2校のみ。益々“市高”旋風は、注目を集め始めていた。
そもそも、”旋風“などという文言が新聞の見出しに躍ったことさえ、幾久しく無かった事だった。
そして、旋風はまだまだ吹き荒れたのだった。

<写真キャプション>
一回戦・佐賀商戦の県版。二、三回戦の県版は昨日の投稿に貼ってあります。甲子園の土持ち帰り禁止記事は、私ではありませんが、参考までに。チームが勝てばヒーロー、負けると球音有情として、1人ずつ選手をクローズアップします。この『ヒーロー』は昨日の投稿で取り上げた影山投手。

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