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8、社会復帰は波乱含み  ③あああ、また呼び出しが…

8、社会復帰は波乱含み  ③あああ、また呼び出しが…
いわゆるママさん記者となった自分が異動になった生活面は、毎日2ページ見開きの紙面を展開していた。10人弱の兵隊しかいない陣容で良くもまあ、作っていたものだ。
紙面はフリーなテーマで書けるページと、日替わりで、教育、子育て、ワーキングウーマン、家族、シニアなどテーマごとに展開している面があった。それにプラス、当時、産経が顔の1つとして売り出していた毎日のレシピを紹介するカラーの料理面もあった。かなりの負担ではあった。

毎週、必ず企画会議と言うかミーティングがあり、ネタを出し合った。そこで出たネタを元に1週間分の紙面構成が出来上がる。その基本線に沿って、皆、取材に入り紙面を作り上げていく。週刊誌のような作り方なのだと思った。突発に備えていた社会面とは全く違って、ネタの仕込みや、情報収集、一週間の行動の目安が立てられ、助かった。
当然の事ながら、子育て紙面に関しては、自分に大きな期待がかけられ、多くの場合、担当していた。しかも、このページも料理と同じく、当時は売りになっていて、「すくすく」と、タイトルまで付けられ、育児面の曜日だけは紙面の作りが見開きだった。この紙面への投書、反響も多かった。ママの視線はなかなか厳しいので、迂闊な事は書けなかった。
中でも、人気があったのは、子供を実際連れて出かけるお出かけシリーズで、長男を連れて、本当にあちこちに体験取材に出かけさせてもらった。今では本当に良い思い出だ。

その長男に関する事と言えば、なかなか辛い事も多かった。私は3人の子供を育てたが、この1番目が最も病気がちで、しょっちゅう風邪を引いたり、お腹をこわしたり。
何が困るかと言うと、ひっきりなしに保育園から電話がかかって来てしまうのだ。取材中にもかかってくる。実に困ったものだった。やれ「熱が出てしまいました」、「もどしちゃいました」、「怪我をしました」などなど。すると、仕事中にいやでも保育園に私が迎えに行かなければならなかった。迎えに行くと、青っぱな垂らしたり、ぐったり横になっていたりする長男の姿があった。
特に長男は、真冬の12月から預け始めていたので、寒くて、実に良くまあ次々と、違う種類の風邪を貰って来ていた。1つの風邪が治ると、また次の別の種類のと言う感じで、世の中にはこんなに色々な種類の風邪があるのか!?と、驚かされた。彼が、1番夜泣きもひどく、手がかかった。明け方に吐いて、最寄りの大学病院の救急窓口に駆け込んだ事も、1回や2回ではなかった。救急に駆け込むと厄介なのは、その翌日に必ず来てくださいと言われることで、本当に勘弁して欲しかった。

それでも、優しい生活班の仲間たちと、母に支えられて、何とか乗り切って行った。仕事を辞める気はさらさら無く、毎日毎日、懸命に打ち込んでいた。
子育て以外にも、企業の女性社員活用、女性の旧姓使用などを含む働く女性の問題などにも積極的に取り組んだ。職場で旧姓使用を求める裁判もあり、当時、私は文化部の記者だったが、部の垣根を越えて、その判決に対しての思いを社会面に書かせてもらった事もあった。その時の弁護団の1人に福島瑞穂もいて、様々、話をした記憶がある。元気で熱い弁護士だったが、いつ方向性が変わってしまったのかなあと、個人的には残念ではある。

また、その頃の保育行政も、まだまだ迷走しており、そこにも深く突っ込んでいった。
本当に子供を持った女性、それだけでなく女性が、まだまだ働きづらい時代だ。
しかも、この問題は一社の一人の記者がわあわあ取り上げていても、駄目だと思い立って、ある思い切った行動に出る事にしたのだった。

<写真キャプション>
1、個人名や一般の方の顔が大きく写っている写真も掲載されているので、その部分はカットしてあり、記事全文がお見せ出来ずにすみません。
2、まだまだ女性社員の採用も、調整弁に使われる時代。
働く女性もいばらの道だったなあ、本当に。

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