見出し画像

美術館での写真撮影

今勤務している美術館の展覧会には、撮影可能な作品が数点ある。
そうなると、撮影の際のルールについての周知が必要になってくるのだが、それだけではなく、撮影してはいけない作品も撮影されていないかの監視も必要になってくる。
人間、不思議なもので、撮影可能な作品がないうちは撮影してはいけないマインドになっているのに、ひとたび撮影OKサインが出てくると、サインないものまで撮影可能と思ってしまいがちのようだ。

そんなわけで、撮影不可の作品前で携帯やカメラを構えている人を見ると、ススス…と近付いて、こちらは撮影不可だという旨を伝える。
そうすると、多くの場合、「あら、ごめんなさい」と言って作品から離れてしまう。もしくは声掛けなくても、撮影不可と気付くや否や、その作品から離れて、撮影可の作品への足早に向かってしまうことが、結構多い。
そんな時に、「なんだかなぁ…」と思ってしまうのだ。

そうした自分のもやもやの原因を考えてみた。
そういった人を批判したいとかではなく、なんで自分がもやつくのだろうという話なので悪しからず。

おそらく、一番は美術館での写真撮影について自分の中であまり腑に落ちていないからだと思う。
その根底の一要素に、自分があまり記念撮影をするタイプではないというのもある気がする。

写真が日常にあり、絵画のイメージもネットなどで簡単に見ることができるこの時代、美術館へわざわざ出かけて作品を見る意味はなんだろうか。
特にゴッホやモネなどといった超有名で、作品がプリントされたグッズ(Tシャツや傘などまで!)が展開されているような作品を、わざわざ時間とお金をかけて見るのはなぜなのだろうか。

それはやはり本物ならではのものを感じ取ろうと思うからだろう。
実際のサイズから受ける印象、写真では分からない微妙な色遣いやディテール。
そしてもしかしたらウォルター・ベンヤミンが言うところのアウラのようなものを感じたいから本物を見たいと思うのだ。

そうなると、ここでまた新たな疑問がわく。
なぜ、美術館で作品の写真を撮りたいのだろうか。
1つは、あまりメジャーな作品ではなくてネットなどでは見つからず、でもとても気に入ったから記憶に留めておきたいという理由。
これは分からなくもない。ポストカードもないかもしれないし。

2つ目は、画集やネットでは分からなかったディテールを留めておきたいからという理由。もしかしたら色味も違うから、自分でカメラを調整しつつ、自分が受けた印象の色に近付けようとするかもしれない。
これも分からなくもない。往々にして、画集もポストカードも全体的な印象は伝えてくれるが、それを構成するディテールまでは分からない。

3つ目は、ここに来たという記念に撮っておきたいから。もしくは、撮影可能というから一応撮っておこうという気持ちもあるかもしれない。
これがよく分からない心情だと思う。
せっかく作品の前にいるのだから、撮影にエネルギーを注がずに、作品を堪能するのに力を注げばいいのにと思ってしまう。
どうせ撮影しても、1ヶ月後には見なくなってしまうのがオチではないだろうか(偏見かもしれない)。

ここまで考えると、やっぱり1つ目と2つ目の理由ですら、大きく同意する気がなくなってしまう。
なぜなら、自分もこの2つの理由で撮影はするけれども、写真を撮ると作品に向き合う度合いが減っていると実感しているからだ。

もし撮影できないとなると、それこそ全身全霊かけて本物の作品を見ようと思う。そして忘れないように、メモを取り、脳に刻み込もうと頑張る。
もちろん撮影可能な時も真剣に見ている。でも写真に残せる安心感から、よかったところの言語化などは怠るし、なんなら良いアングルで撮ろうという気持ちに偏りがちである。

そう考えると、私の中では美術館って本物から得られる感動を吸収して、自分の血肉にしようと躍起になる場所なのかもしれない。
一方、記念として作品の撮影をしたい人は、美術館は楽しい時間を過ごす場所、アート鑑賞を体験する場所なのかもしれない。

本当に正直なところ、静かに鑑賞したいのにカシャカシャ音がしたり、真ん中から撮りたい人たちがカメラを構えて並んでいるとげんなりする時もあるのだが、美術館があまねく人を受け入れているのだから、自分も度量大きくありたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?