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マイナンバーと監視国家論

昨2022年10月、河野大臣が、2024年秋から、保険証の廃止、マイナンバーカードへの一体化を発表してから、それをめぐって混乱が生じている。

これで、ようやくわが国も世界の通常の国の仲間入りができるレベルになったかと思ったのだが、とくに、春以降マイナンバーカードをめぐるトラブルが相次ぐようになってからは、この決定の廃止を求める声もが大きくなっている。

マイナンバー制度とマイナンバーカードの使用とはそもそも異なる問題なのだが、名称を含め、一般の国民には理解しづらい仕組みが混乱を招いているといえよう。

その点も含めて、国民の不安、そしてマイナンバー制度への反対の意見としては、気持ちが悪い、情報漏洩が心配だ、落としたとき悪用されるのが不安、国民の個人情報を国家が一元的に管理するのは監視国家であり、国民の権利が侵害され、民主主義の否定である等々いろいろある。

「気持ちが悪い」は別にして、他の反対理由は理解不足によるものが多いと思われる。とくに、監視国家論は、隣接する某国のように、街中のあちこちに監視カメラがあって行動を監視されているとともに、収入や職業、家庭の状況などのデータを国が保有し、それに基づいて信用や資格を審査し、生活や行動、さらには思想や信条についても干渉してくる状態が連想されるのだろう。

だが、個人情報を国が保有し活用している国が全て監視国家、権威主義国家かというと決してそうではない。例えば、デンマークやスウェーデン、フィンランド、エストニア等々のデジタル先進国では、国が国民の個人情報を保有し、それに基づいてきめの細かいサービスを提供する福祉国家を実現している。これらの国は監視国家なのか、民主主義国家ではないのか。世界の常識は、これらの国はむしろ最も進んだ民主主義国であると評価している。

第二次大戦後成立した福祉国家は、すべての国民に最低限度の生活を保障することをめざした。それを実現するためには、いうまでもなく国民各自の収入や健康状態、その他の生活の状態を正確に把握し、最低限度の水準に到達しない保護を必要とする国民に対して、必要な量の支援をきめ細かく提供することが必要である。

それには、国民の個人情報を収集し、受給資格者を特定し、確実に給付を行う仕組みが不可欠だ。北欧諸国では、そのためにかなり早い段階から国民ID制度を導入し、そうした給付を正確、迅速かつ漏れなく行う仕組みを確立した。そして、デジタル技術が利用できるようになってからは、それをフルに活用して、効率的に複雑な制度を運用している。

わが国ではコロナ禍が始まった2020年、生活困窮者を助けるために、裕福で必要としない者も困窮している者も区別せず、一律に10万円を配るという愚策を実施した。しかも、受給者を確定するために、多くの行政上のコストと時間をかけた。国民各自の生活状態を国家が把握していれば、多くの国でそうしたように、自動的に、いわゆるプッシュ型で、必要な者に必要な額の給付を速やかに給付できたのに。

これは、わが国では、個人情報保護という理由で、国民各自の状態に関する情報を利用できなかったために生じたことだが、このような大きなコストを払って、国民のどのような権利が保護されたのか、どのような利益を提供したのか、どのような権利侵害から守ったのか。私の知る限り、北欧諸国では、このような福祉国家が実現されている上に、個人のプライバシーも、わが国よりはしっかりと保護されている。

わが国と先進諸国との違いは、どのようにして民主主義が実現されるべきかについての探求と議論が、それらの国にはあり、わが国にないことであろう。政府に対する「信頼」がすぐに強調されるが、北欧諸国も最初から政府に対する信頼があったわけではない。信頼を築く方法を議論し、国民が納得して、福祉国家を実現してきたのである。

必要なことは、このような福祉国家の仕組みをしっかりと説明し、それを透明度高く、公正に運用することである。確率の低い悪用の可能性を防ぐために、個人情報の提供を拒否し、その利活用をしにくくしたのでは、一律10万円の愚策のように、真に公正で心のこもった福祉国家は実現できないことを分かり易く国民に説明すべきだ。

そうしたしっかりとした国民に対する説明を政府に期待したいところだが、はたして政府の幹部の人たちは理解しているのだろうか。それが心配だ。