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青空について


家の近くに牛小屋があった。

モォーモォー泣いていたのは小学校低学年までだった。それから牛がいなくなったけど、ぼくらは牛小屋と呼び続けていた。

夏休み、小学校のプールが自由に使えるプール開放日は、友達といっしょに学校へ出かけた。僕の家の前に自転車を置いて、牛小屋の横の細い坂道を通っていく。

僕の家から小学校までは牛小屋を使えば徒歩5分で行けるのに、正式な通学路はぐるっと回り道して、20分ほどかかった。

「謎の開放感に満ち満ちた夏休みは、なぜか牛小屋の坂道を通っていい」、それはぼくらの家族や友達のあいだで暗黙の了解であり、そして当然の帰結のような気もした。夏休みにあの木に囲まれた坂道を通らないで、つながれた番犬に気を使って進まないで、いったいぼくらはなにをすればいいというのか。

牛小屋の道は私有地だったが、「こんにちは!」とあいさつをしっかりすることで通らせてもらっていた。ありがたし。

日照りの続く夏の日、青い空を見ると思い出す。

夏休み、いろんな友達と牛小屋の小さな坂道を越え、プールに行った日々を。水中にある、スーパーボールという名の宝物さがしに夢中になった日々を。15時にプールを解散し、夕方、蚊取り線香の横でゲームボーイをしている姿を。父親に習字の指導をされ、泣きながら書いていたことを。提出物は毎年期限ギリギリで、提出日の前日に絶望しながら取り組んだ夜を。今は亡き愛犬にくっついて、暑かった毎日を。

「大人になったらどうして日々の幸せを忘れてしまうんだろう」
口にしたくない。目にしたくない。口にした途端、忘れることがさも当たり前かのように脳に侵入してくる。そんなわけがない。そうであったとしてもわたしは抗う。

「大人になっても、わたしは日々の幸せを感じています。」
Google翻訳みたいだけど、口にするならこれでいいだろう。

寝る。おやすみ


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