「自分が何をしたいか」がどうでもいいお年頃

最近、創作する上で「自分が何をしたいか」について、改めて考える事が多くなりました。

世の中には色々雑念があります。
自分が活動しているマーケットでの流行りとか、売れる為の方法とか、フォロワー数を伸ばすには云々~とか、生成AIの問題とか…
もちろん、良いとか悪いとか以前に、出して誰かが見て完成する以上は、それらの外的な要因を完全に無視する事はできません。ある程度は考慮してしかるべきです。
ただ、世の中的に?「自分がどうしたいか」って話よりも「何をどうすればいいか」って話が多い気がします。
まぁそれは「そういう話が売れるから」マーケットが努力した結果なんだけど…

例えば、生成AIとくれば「稼ぐには!」「副業!」みたいな話がありがちだと思います。
生成AIという何かしら生み出してくれるように""見える""金のニワトリのようなものを手にしてしまったら、それまで創作してなかった人まで巻き込んで「じゃあコレで稼ごう!」となるの、ある種の人間のスゴ味を感じる。

(生成AIの是非はテーマではないので)
生成AIの是非は置いておいて、稼ぐとか副業以前に生成AIを使って「お前は何がしたいんだ?」ってのが話の方が大事じゃなかろうか…。
生成されるジェネリック美少女で、自分自身はたいして欲しくもないオンデマンドグッズを作りました!って、それは本心でやりたい事なのか?という問いだ…。

世の中の仕事というのは、大半が必要があって金の為にやりたくもない事をやっているというのが現実だと思う。自分もそういう仕事をやってきたのでよくわかる。
ただ、その与えられた選択肢の中でも極力自分の得意な事、苦になりづらい事をいうのを手繰り寄せていって、やるべき事とやりたい事のバランスをとってくのが人生だと思う。

それでいくと、AIが無かったらやってないような仕事みたいな事で、仕事なのに報酬も未知数ならやらなくていいんじゃない?と思ってしまう。
それでも走り出す人が居るのは「生成AI的な金脈に""見える""なにかを、ただ指をくわえて眺めてるだけ」っていうのは一定のストレスがあるんじゃないかと思っている。

我々は経験的に知っている。
YouTubeのような新興のプラットホームや、仮想通貨のような黎明期に参加すれば、もしかしたら大金が稼げてるかもしれないし、何者かになれてるかもしれないという事を。
潜在的に今成功してるYouTuberを見て「こんな素人みたいな動画作るだけで金持ちになれるとかチョロすぎるだろ、マーケットが伸びる前に早期参入していれば…」みたいな気持ちはどこかにあるんだと思う。
(ちなみに、実際は全くそんな事はない)

そんな気持ちどこかにあると、今更「自分が何をしたいか」なんてどうでもよくなって、新興のチャンスであれば飛びついてしまうんだと思う。
直近で言えば、NFTとか、メタバースとか、Web3とか、そういうもの。

でも、最近はそれらについても、極力「そうなるよな(共感)」と捉えるように心がけている。(心がけているだけなのでできない事もある)
世の中は内在的なやりたい事よりも、そもそもそんなモノはなくて、できる事で効率よく成果が出ればそれでいいってニーズはあって、なんならそういうモノの方が主流なんだと思う。

度合と性質はだいぶ違うけど、創作においてもその気は若干ある。

創作だと本人の内在する動機が強く出てる事が多いけど、絵を描く動機が「フォロワー数を稼いで仕事に繋げるため」という事も往々にしてある。
そして、好きだから描いてるというよりは、伸ばすという事が主目的の二次創作で流行りものだけを描き続けて、足掛かりになるフォロワー数を稼ぎましょう的な事はある。
そして、これは実際に「ちゃんと成功する」場合はあるし、誰かに見せて完成する以上はマーケットの求めてるものを察知して今欲されているものを用意して出す!というのは、めちゃくちゃ順当な努力だ。

さて、そういう成功を目にしてなお、自分が一次創作に拘る理由はなんだろうか?
こと、自分において言えば、やはり自分自身の力で追い求めるものに近づきたいというのがあって、所謂な「伸ばす云々」というのは、自分のやりたい事ではないからだ。

ただ、世の中にはいくらでも雑念があるし、成功とお金なんていくらあっても困らないんだから欲しいに決まってる。
時に自分のやりたい事とマーケットの求めてる事のバランスをとる必要性は来るだろうが、そのために根本から自分のやりたい事を曲げてしまっては本末転倒だし、その先に何かあると思えない漠然とした理想論がある。

米津玄師さんの地球儀の歌詞に「この道が続くのは 続けと願ったから」という一節がある。
世の中にあるモノというのは、大なり小なり誰かが思ったからあるというモノが大半だと思う。
獣道のようなものでさえ、過去に誰かがそこを通りたいと思わなきゃ存在しない。
狂ったような思想とか、エッグい性癖とか、執念とか、そういう思いの果てに必然性を伴ってモノというのは出来上がる。
そして、自分の理想論では、創作に限った事ではなくコトを起こす、モノを作るっていうのは、それ以外にたりえないんじゃないかと思っている。
(徹底的にマーケットに寄り添って、欲しいとされてるモノだけを用意するというのは、内的な動機を外的要因(マーケティング)で決めてるという事だと思う)

自分にとってやりたくない事、自分が何をしたいか、マーケット的には何が求められているか、その輪郭と解像度をどうやって磨いたらいいか?という事を考えている。

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