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不機嫌

昨日はひさしぶりに帰宅が深夜になった。最近あんまり、終電を意識するような時刻に帰宅しない。もっと宵の口の健全な時間。
帰宅したらどっと疲れが出るかなと思っていたら、そうでもなくてさくさくと家事をしたりして、シャワーをすませて洗濯機まわして、ルーティンワークのストレッチもして日記も書いた。洗濯終わるまでもうちょっとあるなという時間、歯磨きしながらnoteアプリを開いた。

noteはスマホからあんまり見ないし書かないけれど、そうやってたまに隙間時間に開く。文章や人に出会うときもあるし、そうでないときもある。後者は「ああ、見てしまった」「なんで読んでしまっただろう」という類の感情が残る。べつに不快なことは何ひとつ書かれていないはずなのに、どうしてそう思うんだろう。

昨晩は後者だった。たまに見る書き手の記事。たぶん同世代。たまに、その感性に感銘を受けるときもあるから見てしまう。細やかな内省が綴られている。わかる、そういうの。わたしもするから。

昨日は「なんで読んでしまったんだろう」が残った。消化しきれないとかじゃない。たぶん。眩しいのかな、その書き手が。わたしのできないことをしているから、鏡のようにその文章に反応しているのかなと思う。本当はああいうふうになりたいの? 「わたしはここまでやってきた、もう十分に。だからもう卒業」と胸を張って(いるように文章からは見えて)いるその書き手のように?

そんなの危うくない? と思う。いつ穴に落っこちるかわからないのに。穴は誰かに用意されていて、その誰かはいつもわたしの予想を超えている。あの人が? 信じていたのに? どうして? …いや、どうして?じゃないのか、やっぱり、だったのか。それは、起こるできごとがわたしの経験則から予想できる範囲内だと思うなよ、という警告だ。

わたしはその警告を怖れすぎているのだろうか。びくびくして自信が持てていない? 結局裏切られるから、と距離を取ったり親密になるのを避けたり、回避的な行動は少なからずしてしまう。べったり依存もしてしまうくせに。どっちかに偏る自分はもうやめて、できるだけ道の真ん中を歩く。そういう道って、退屈なときもあるけど。

「まだ自分の中を見続けて、ときには丁寧に取り出して誰かと一緒に見て労わり続けている。わたしにはそれが必要」と考える人とのほうが親和性がある、と思ってしまう。悲観的なわけではなくて、現実的な慎重さを持ち合わせているだけだよと思う。自分を買いかぶっていなくて、「これで十分」というリミットも設定していなくて、いつまでも解放したいがために縛られている。天はどこまでも高いこと、知ってる?

「もうわたし大丈夫なので」と書いているその書き手に、わたしは何を思ったのだろう。つつつっと近づいて、そんなの裏切られるよとささやきたいのだろうか。意地悪、わたし。やなやつ。知ってる。

でも、昨日は疲れていて眠れた。よかった、眠れて。感情がたかぶっていて暑くて、真夏みたいな恰好で寝たら朝方ちょっとだけ冷えて目が覚めた。もうちょっと寝ていたかったけど、起きて顔洗ってコーヒー淹れて、いつもの朝を始めたら案外大丈夫だった。わたしにとって「もう大丈夫」ってこんな感じ。大丈夫なのはほんの「いま」だけで、すぐ先の未来はわからないけれどいまを大切に地に足をつける感じ。ざくざく切ったキャベツとレタスとトマトのサラダと、昨日買ったベーグルとコーヒーの朝ごはん。たんぱく質足りてない。

パソコン開いて仕事のことちょっと確認したら、昨日作った書類が保存されていなかった。Googleの共有シートでそんなことある? まさか、誰かが故意に消した? 編集履歴を見てもその形跡はない。そしてわたしが昨日編集した履歴も残っていなかった。誰も責められないじゃん。わたしの確認不足なだけじゃん、あーあ。
で、がっくりきて昼にこれ書いてる。三十分近くだらだらと連ねたらすっきりしたかもしれない。noteは掃き溜めになんかしたくないのに。たまには許して。こういうもんだよな。


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