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茶園の耕作を放棄させない世界を創りたい

今、茶業を生業とする人がどんどん減っていく中、そのまま茶園が耕作放棄され、森のようになっていく「耕作放棄地」と呼ばれる土地があります。そこで、私たちができる事はないか?と考えるべく、掛川のとある農家さんたちのもとを訪ねました。

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耕作放棄され森のようになった茶園(元々は茶園があった)

松浦久夫さん(72歳)、晋泰道さん(73歳)。松浦さんが52歳、晋さんが53歳で会社を辞め、脱サラして2001年に農業法人倉真製茶(茶園管理グループ)を立ち上げました。2人は以前所属していた機械メーカーの会社でも元同僚でした。

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農業法人倉真製茶の松浦久夫さん(72歳)

前職で松浦さんは、人事・購買などの業務を担当していた。晋さんは、元エンジニアで、エンジンなどの品質管理、工場の溶接や組み立てなどの業務をしていて機械いじりが大好きでした。お茶の荒茶工場での機械いじりにも興味があったと同時に、自ら抹茶をたてたりする位、もともとお茶が大好きだったことも講じて、お茶の世界に足を踏み入れました。

この2人が茶業の世界に入った2001年は、ちょうどペットボトルの緑茶飲料の全盛期で、「伊右衛門」がローンチされ、「ヤクザがアタッシュケースを持って農家のもとにお茶を買い付けに来る」と言われたりもするお茶のバブル期と言われるタイミングでした。お茶を作れば、お茶が売れた、お茶の全盛期でした。

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農業法人倉真製茶の晋泰道さん(73歳)

また当時は、11町歩(東京ドーム約8個分。1町歩=3,000坪=9,900㎡)の経営面積があった。しかし今では、8町歩(東京ドーム約6個分)となり、約3町歩(東京ドーム約2個分)は茶園での作業を断念、耕作放棄せざるをえないような状況です。と言うのも、茶業の原価の大部分は、肥料・農薬、そこに農作業のアルバイト代(お茶が摘れる春と夏と秋の約10日ほどの期間=茶期の間が、多忙で、茶葉を摘採作業などを手伝ってもらう)になります。

次に、茶園に肥料を撒いたり、摘採機械を動かすために使う重油代、防霜ファンを回すための電気代などがあります。防霜ファンは、春先など深夜や早朝に霜が降りてその寒さで茶葉がやけてしまう凍霜害(茶葉が収穫前に霜にやられて、低温障害をおこし、出荷ができないような品質レベルになってしまう)を避けるために茶園に何10個と取り付けられています。これらの中でも特に今では、バイト代などの人件費や重油代が値上がりし、更に原価を圧迫しています。

一方、茶葉の第一次加工品である荒茶の市場で取引される価格は、松浦さんと晋さんが始めた2001年頃に比べて、1/2以下となり、10a(茶園で収量などを語る際に多く使われる単位、0.1ha当たりの採算が合わないのです。すなわち、赤字になってしまうため、泣く泣く耕作放棄地にせざるを得ないのが現状です。

ちなみに、荒茶とは、収穫した茶の生葉を蒸気で蒸したり、揉むことによって、形や大きさをそろえたり、水分を5%程度にまで乾燥させた、次の仕上げ加工(焙煎工程)を待つ、生産者が製造する第一次加工品のことです(行程時間は約4時間)。

バブル期から一変した危機

一番のダメージを受けたのは、2011年福島原子力発電の爆発により、静岡の茶葉が放射能の影響を受けているのではないか、との風評被害でした。それをきっかけに、大きく需要が減っていくのを松浦さんと晋さんは、肌で感じました。逆に九州の産地(全国生産量当時に出会った鹿児島や宮崎、熊本など)の茶葉は安全だと言う認識が広がり、大きく仕入れる茶葉の産地をシフトする茶商(荒茶を市場・農家から仕入れる業者)が増えていきました。

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耕作放棄地を歩く松浦さんと晋さんと一坪茶園のメンバー

中でも九州は、平坦部で茶園が造成されたケースが殆どで、肥料を撒く機械や摘採機械などがスムーズに入るため、大量生産型に向いてる産地とされています。一方で、静岡県の茶園は、明治維新により崩壊した旧幕府の職を失った幕臣が移り住み、牧ノ原台地を開墾し、そこから掛川市を含めた周辺地域へ入植して広がっていきました。

そうした茶園は、新幹線からも見える景色の通り、山あいの段々畑の地形に茶園が小規模に点在しており、俗に小規模生産型の中山間地帯の茶園と言われおり、肥料をまくのも摘採をするにも、乗用型(人が乗れる)の機械が入ることができず、2人1組で可搬型の摘採機を茶園の畝をまたいで持ちながらすべての手作業をしなければならない茶園が多く、かなりの重労働になってしまいます。高齢者の方が農作業をするには、難しい地形で、無理に乗用型の機械で茶園作業をしようとして、そこから転落し死に至ったケースもあります。

こうした倉真(くらみ。松浦さん達の工場があるエリア名)のような中山間地帯のお茶は、品質的に高く評価され、高値で取引されてきました。しかし今では、需要がないことで、市場で高値がつくことは難しくなってきています。

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農業法人倉真製茶の事務所で茶業について議論

相思相愛だったお茶と倉真

松浦さんは私たちに、こう言いました。「お茶は、倉真が好きだった。でも今は、お茶は、倉真のことが好きじゃないんじゃないかって思う」

会社を辞め、お茶が大好きで踏み込んだ茶業。そして、相思相愛だったはずの倉真とお茶は、バランスを崩し、茶の産地としての価値を失いつつあります。

今後の見通しを、松浦さんと晋さんはこう語ります。
「今は8町歩ある茶園は、5年後には半分、10年先には0になる」

こうして徐々に耕作放棄されざるを得ない茶園を掛川市の助成を受けながら転作し、生落花を植え育てている。理由は、茶の改植(植替え)をしても茶葉が収穫されるまでに5年以上はかかり、農作業にも労力がかかる茶園は耕作し続けられないが、何とか自治体や協力してくれる人たちの力を得て、落花生のような比較的農作業負担が少ないものをその土地を生かして農業を続けていくしかない、と。本当はお茶を思う存分作りたいのに……。

松浦さんと晋さんは愛情を込めて、この掛川の地で茶葉を育てようにも、その先にいる飲み手を想像できず、現代のライフスタイルにおける変化によって、どのようなお茶が求められているのか、どのようにしたら飲んでもらえるのかがわからないのだと感じました。需要と供給のミスマッチが、農家さんたちの首を絞めているのです。

農家さん一人一人の顔と思いを鮮明に想い浮かべながら、茶葉を設計

だからこそ、私たち一坪茶園が松浦さんや晋さんのような作り手の想いをしっかりと受け止める必要があります。そして、農家さん一人ひとりの名前と顔を思い浮かべながら、農家さん一人ひとりの想いそのものであるお茶の味わいを最大限に引き出す。一坪茶園の茶葉設計技師である永井が、農家さんそれぞれの茶葉を丁寧にそれぞれに合った焙煎をし、ブレンドし、最終製品として設計していく。

そして、農家さん一人ひとりの想いの紡がれたお茶を心から飲んでみたいと思う人たちに届けていく。これらこそが、私たちのミッション「作り手と飲み手の想いをつなぎ、日本茶の未来を創る」。こうして、耕作放棄地になっていく茶園を、耕作放棄地にしないために、何ができるのか、改めて現実を直視して考え、行動に移していきたいと思います。

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次回は、掛川の20歳前後の若手農家さん達のお話をお伝えしていきたいと思います!

(一坪茶園代表:脇奈津子)

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