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大病体験記 第1章「心地よい生」03

 ある程度職歴を重ねていくと、職業人には、「自分なりの仕事のやり方」「納得できるクオリティ」「対人関係の処し方」などの「ポリシー」が構築される。
 彼にも、最も多忙を極めた20代後半から30代中盤にかけて得た経験と業績をベースに、ポリシーは築かれた。

 仕事は、その成果として、他者にプラスの影響を与えなければならない、というのが彼の考え方のベースだ。
 これを実現するため、彼は、共同で資料作成などを行う際、率先して仲間の業務を減らし、差分は自分の業務量増で賄った。また、市民用の説明資料や利用ガイダンスは、何も知らない方でも迷うことのないよう、わかりやすく、丁寧に作った。国に提出する業務報告書は、忙しい国の担当者に不要な心労をかけず、スムーズに検査業務を完了し、上層部への稟議にも流用しやすいよう、明瞭ながらも詳細なものとなるよう心掛けた。

 その結果、事業担当者としての彼は、関係者から好評を博した。
 しかし残念ながら、彼の配慮や、業務の肩代わり、資料の作り込みなどは、数字に表れる業務改善や、劇的な好結果をもらたすのもではなかった。
 故に彼は目立った実績をあげないまま、「使い前のいい担当者」として順調に役所のキャリアを積んだ。

 そして、40歳を迎える頃。
 ご多聞に漏れず彼にも、係長、課長代理、課長と、年功序列の上方にスライドする時期が来た。
 部下を使わなければならない。
 彼は当惑した。
 自身が「都合のいい担当者」である事については、納得ずくでやっている話なので、誰かに「貧乏くじを引いている」と言われても全く気にならなかった。
 だが、部下になる優秀な若者たちに、そんな非効率を押し付ける訳にはいかない。貧乏くじを引かせ、出世を阻害するなどもってのほかだ。

 彼は、組織を離れることにした。その上で、中小企業支援の業務を「平社員」として続けられる道を探した。
 検討の末、彼は役所の外郭団体である財団に転職した。そこは、部下を持てるほど大きな組織ではないはずだった。平社員として気楽な稼業を継続しつつ、心ゆくまで貧乏くじを引いていられると思った。
 しかし、当初順調だった財団勤務だが、10人に満たない正規職員のうち数名を束ねる「班総括」というポストが、転職2年目から彼に降りかかった。
 まずい。これは非常にまずい。未来ある若者に、自分は良い道を示せない。
 結局、手持ちの業務の他職員への引継ぎを経て、財団も4年で退職することとした。

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