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消えてしまった「匿名のアライさん」の性質

「匿名のアライさん」の特色は「ア界隈の中にある」こと、彼ら/彼女らが「アライさん」であることだった。これが良い面、悪い面、表裏一体だったのである。

(本投稿は私がTwitterで連投した内容を11月5日に大幅に書き直したものである。最後に「匿名のアライさん」が消えてしまった現在11月29日の私の考えを付け足している)

1.「匿名のアライさん」という存在

 10月末に「匿名のアライさん」というアカウントが生まれた。Twitterアカウントを作るほどではないにしろ、気持ちを語りたいフレンズのために作られた文章投稿フォームとアカウントである。自分でTwitterアカウントを作らなくても、フォームに文章を打ち込んで、送信ボタンを押すだけで、「アライさん」として匿名で呟くことができる。ア界隈外の人も呟くこともできるし、すでに「アライさん」になっている人が呟くことも可能だ。
 ア界隈外の人がちょっとだけ語る。ア界隈内にいても、話しにくいことを語る。そういうニッチな需要に応えたアカウントであろう。
 しかし今後、「匿名のアライさん」はア界隈に少なからずの影響を与えると考えられる(外れるかもしれないが)。なぜなら、「匿名のアライさん」はア界隈の中に存在するからだ(注:この文章は11月5日に書かれたもの)。
 「匿名のアライさん」で投稿された文章は、Twitterのア界隈内における「アライさん」達に読まれることになる。匿名であるが故に過激な投稿もあるだろう(もう実際にある)。「アライさん」達は、「ア界隈」形成から6ヶ月の間、多くのことを“語って”きた。「匿名のアライさん」がその“語り”から逃れられるはずがない。
 「匿名のアライさん」で問題が起きたとき、ア界隈は絶対に“語る”だろう。

 これまで、ア界隈内においては様々な「セルリアン」が存在し、炎上させられてきた。その際、多くのアライさん達は“語って”いた。その「語り」は多くのアライさんが「アライグマの皮」を被ったときに語る、自分の境遇や環境、存在について語るものとは違うものである。その語りは「アライさん」や「ア界隈」という概念を問い直したり、自らの一部である「アライさん」のアイデンティティを問い直すような「動き」として、私には思えた。
ア界隈で「語り」が起こる一方で、4月末に誕生し、裏ア界隈とまで言われた「アライさん界隈ヲチスレ」は晒しや誹謗中傷、煽りなどが多く、おおよそ自らを語る「アライさん界隈」とは全く違う場のように思える。ア界隈とヲチスレは「場」としては完全に別と言って良いだろう。

 「匿名のアライさん」は1つのTwitterアカウントである。しかし、このアカウントは不特定多数の投稿文章によって成り立っており、掲示板と似たような「場」として使われている。その点では掲示板「5ch」を「場」とするヲチスレと似たような環境と言えるだろう。ただ、「匿名のアライさん」は生まれたばかりであり、ヲチスレと違って使い方に方向性がない分、様々なツイートを見ることができる。ちょっとした日々のことや、自分のアカウントでは言うのが恥ずかしいような告白、政治のことや罵詈雑言とかとか。ただ言う事だけが目的の投稿もあれば、喧嘩腰で誰かと誰かが罵倒めいて議論し合っている様子も見られる。

 「ア界隈」自体はアライさん達にとって共通目的がない「場」とはいえ、半年あまりも続いている界隈である。すでに形成された空気や文脈がある。その空気や文脈に反したアライさんは「セルリアン」と呼ばれ、排除されてきたし、「ア界隈」で言えないことや闘争、悪口は、ア界隈の外にあるヲチスレやDiscord、Twitterの中でも周囲から見えないDMなどに持ち出されていたように感じる。しかし、ヲチスレやDiscordと「匿名のアライさん」が大きく異なる点はTwitterの中……つまりア界隈の中、しかも多数に見られる環境の中に存在することだ。それがどのような意味を持つか。今まではア界隈の空気に制御される形で、ア界隈外に持ち出されていたであろう闘争や悪口が、全くの匿名性を盾にアライさん界隈内で行われる可能性が生じる、ということである。

 もっとも「匿名のアライさん」には管理者が存在し、投稿フォームには「人を傷付けるようなことに使わないで欲しい」旨の文章がある。場合によって投稿ツイートの削除、利用者のIPアドレスのブロックもあるとしている。「匿名のアライさん」は積極的にコントロールされる場である。そのため、ヲチスレのように晒しや誹謗中傷、煽りのための「場」にはならないだろう。しかし、管理者が投稿ツイートの削除、IPアドレスのブロックなどを行使するまでのタイムラグは絶対的に存在する。管理者も完璧な存在でないから、削除するべきか、IPブロックするべきか、悩むだろう。そのタイムラグの間に、ア界隈ならば「セルリアン」とされるような発言は「場」としての「匿名のアライさん」を飛び出して、ア界隈に届く可能性が十分にある。

 すでに「匿名のアライさん」は700人以上のフォロワーが存在しており、それだけの人数が「匿名のアライさん」に投稿されるつぶやきを見られることを意味する。引用リツイートがされれば、さらに多くの人の目に入ることになる。
 ア界隈は(現実社会でもあることだが)発端がよくわからない話や言説であるにも関わらず、多くの人に伝わって語られることがある。8月ごろに発生したア界隈派閥言説など特にそうだ。「匿名のアライさん」を見た誰かが「それ」について、何かしらの発言すれば、大人数が語る話題に発展する可能性は高い。
 さらにいえば、「匿名のアライさん」は匿名であるが、利用者全員が顔にアライさんアイコンを持つ「アライさん」となる。そして、ほとんど全員が「~なのだ」のアライさん口調で話す。「匿名のアライさん」利用者は「アライさん」そのものである。一方でヲチスレの利用者は、実態が「アライさん」であっても、ヲチスレを利用するときは皮を脱いでいる。ヲチスレ利用時は「アライさん」ではない。この差は大きいだろう。誰が、どんな発言をしようが、「匿名のアライさん」を利用する限り、その人は絶対に「アライさん」だからだ。

 ア界隈の空気や文脈に反するものは、各人の「アライさん」のアイデンティティを脅かし、「セルリアン」とされ、排除された。「ア界隈」で言えないことや闘争、悪口はア界隈の外にあるヲチスレやDiscordに持ち出され、皮を脱いだうえで行われていた。
 ア界隈の中にある「匿名のアライさん」で、皮を被った「アライさん」でありながら、闘争、悪口が周囲に見える形で行われたとき、どうなるだろうか? 特定の誰かを「セルリアン」扱いできないとき、どうするだろうか? 「ア界隈」や「アライさん」の概念や各々のアイデンティティは脅かされるのだろうか? 単純に「匿名のアライさん」が各アライさんによってブロックされるだけだろうか?
 どのようになるか、私にはわからない。しかし、少なくともア界隈の中で、「語り」は発生するだろう。
 この文章もまた「語り」だ。

 しかし、「匿名のアライさん」は匿名性によって誰かが「セルリアン」とされ、決定的に排除されることはないし、逆に抑圧されていた感情や思いが言うだけは言える場でもある。非難のリツイートやリプがされても投稿した本人に通知が行くわけでもなく、ア界隈側で語られようと、本人がそしらぬ顔ができる(可能か、はともかく)。それはそれで、良い事かな、とは私は思う。
 はたして、ア界隈の中に存在する「匿名のアライさん」とア界隈は、今後どのような影響を与え合ってゆくだろうか。

(執筆:2019年11月5日)

2.「匿名のアライさん」が消えて

 「匿名のアライさん」は消えてしまった。私は当初から「匿名のアライさん」に「アライさん界隈ヲチスレ」と似た性質を観ていたから、このような結末になることは想像できていた。しかし、一ヶ月で消えてしまうとは思わなかった。

「匿名のアライさん」は積極的にコントロールされる場である。そのため、ヲチスレのように晒しや誹謗中傷、煽りのための「場」にはならないだろう。

 先にこう書いたが、実際には誹謗中傷、煽りの「場」になってしまったようである。「匿名のアライさん」がア界隈のアイデンティティを崩しうるものであったかというと、そうではないだろう。ア界隈は数々の「パークの危機」、度々の「セルリアン」によって揉まれたことで、「アライさん同士だろうと、わかりあえない相手はいる」という「現実」を把握しているアライさんは多いように感じる。「理想」は理想であるから「理想」である。
(ただ、「匿名のアライさん」の管理者が「匿名のアライさん」を積極的にコントロールできていたのかは疑問である)
 私は「匿名のアライさん」を見たとき、良い印象を持った。1つのアカウントで長期間Twitterをしていると、案外と呟けないことができてしまうものである。伝えたいけれど、気恥ずかしくて伝えられないこと、あえて言うべきなのか悩むこと、色々ある。こういうことは言葉にして、自分の外に出してしまえば、楽になる。
 「アライさん界隈」も、そういう「言葉にして楽になる」方法と「場」の1つである。しかし、その「場」の人との関係が深まるにつれて、伝えたいけれど伝えられないこともできてしまう。「ア界隈」は集団的な「場」のように見えて、Twitterという個人同士のつながりの集積体でしかない。1対1の関係は一度、関係が切れてしまえば、再び関係を結び直すのは困難な面がある。
 自分の発言が相手を傷付けてしまうかもしれない。そうなってしまえば、関係が途切れてしまうかもしれない。途切れて、関係を再び結び直すことはできないかもしれない。失われた時は戻らないかもしれない。取り戻せないかもしれない。
 このような恐れが発生し、「私」を出せなくなり、「キャラ」で固定される。現代はもはやコミュニケーション能力が至上とされる社会である。さらにTwitterにおいてはコミュニケーションは「いいね」やリツイート、フォロー数などコミュニケーション度合いが数値的な比較可能な「価値」になっている。そんな「場」で、コミュニケーションされない、つまり“選ばれない”人格に「価値」はあるだろうか? いったん“選ばれた”人格である「キャラ」を変えることなど可能だろうか? 自己で完結せず、根本的に他者を必要とするコミュニケーションという行為は自分の努力では変えられない強い拘束力を持ちうるのである。
 そのコミュニケーションの休息の場として、「匿名のアライさん」は十分に価値があったと思う。誰かも分からないけれど、発言するだけの場。お互い匿名で、誰かも分からないけれど見てくれて、既存の人間関係から、「キャラ」から、ある程度、解放される場。そのような価値を私は見ていた。
 ただ、その価値が存在していたとしても、そのように使われるとは限らない。もちろん、そのようにも使われたが、それ以上に闘争が目立った。強い言葉はやはり強い印象を与えるものである。そして、そういう「場」の認識がなされ、語られ、認識が再生産されていく。「認識」は徐々に、そして最終的には「現実」になる。
 「匿名のアライさん」の特色は「ア界隈の中にある」こと、彼ら/彼女らが「アライさん」であることだった。これは良い面、悪い面は表裏一体だった。「匿名のアライさん」は良い存在、悪い存在、というわけではなく、ただ、そういう存在だったのである。

(執筆:2019年11月29日)



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