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境界を越えるバス/旧国境編3/六浦道鼻欠地蔵前

武蔵/相模旧国境編その3
現地調査:2021年10月/2022年2月/9月
2022/09/21初版公開

本文中のデータは、特記無き限り2022年9月時点のものです。
また画像は特記無き限り著者が撮影したものです。

境界を越えるバスシリーズ、武蔵・相模国境編の第3回は、ちょっと意外?な場所になります。相模国が三浦半島の中央分水嶺を越えて東側にはみ出していたエリアになります。

場所

 武蔵・相模の国境は、以前の記事で述べたように、海岸から現代の横浜・横須賀市境になっている分水嶺の尾根を辿り、逗子市との三市境にて三浦半島の中央を貫く山稜に突き当たる。国境はここで北に方向を変え、江戸湾=東京湾と相模湾の分水嶺をひたすら辿っていく、というのが、明治期以降に設定された国境である。ちなみに、明治初期に廃藩置県が行われた際、いわゆる律令制の頃からの「国」は明確に廃止されたというわけではない。というか、江戸時代の段階で「国」は既に行政区分の役割を果たしておらず、単なる地域区分にすぎない状態になっていたので、今更、あらためて廃止する必要もなかった、ということであろう。なお、陸奥国が陸前・陸中・陸奥・岩代・磐城の五国に、出羽国が羽前・羽後の二国に分割されたのは、明治に入ってからのことである。
 江戸時代以前において、武蔵・相模の国境は、三浦半島中央山稜を武蔵国久良岐郡・相模国三浦郡・相模国鎌倉郡の三郡境まで遡るが、その先で分水嶺を離れ、武蔵国久良岐郡側に楔のように張り出していた。このエリアは、当時、鎌倉郡峠村の領域であった。鎌倉時代の政治の中心であった鎌倉から朝夷奈切通を経て江戸湾側の外港である六浦を結ぶ六浦道が通っていた界隈でもある。この楔の頂点が、現代でいうと神奈川県道23号原宿六ツ浦線の大道中学校入口交差点付近になる。この道路は横浜環状4号線とも呼ばれる幹線道路で、多くの路線バスが通過する。ちなみにこの地点付近にあるバス停名は「大道中学校前」である。

江戸期の武相国境(緑線)と鎌倉郡峠村など位置関係。
橙色は三浦半島中央分水嶺、青色は郡境。
以前の記事で取り上げた場所や、本記事で出てくる場所も追記。
ベースの白地図は、freemap.jp より。

 この地点の県道の北側には、「鼻欠地蔵」と呼ばれる磨崖仏=崖の岩石にに刻まれたお地蔵様(というにはちょっと巨大だが)がある。本記事のトップ画像は、その鼻欠地蔵の全景である。長い年月による風化で鼻の部分がかけてしまっていたことからこの名前がついたが、現代では全身いたるところが風化してしまっていて、全体像をつかむことすら覚束ない。別名を「界の地蔵」といい、武蔵・相模の国界にあったためこの名前がついたとされる。

鼻欠地蔵の「横顔」。
正面から見るよりもお地蔵さんらしい、かも?

 この付近から北西方向に尾根が始まっているが、これが旧国境であると比定されている。ちなみに、この尾根沿いには遊歩道?ハイキングコース?が整備されていて、特に武蔵国側が直近まで宅地開発されているものの尾根の直前でストップしており、旧国境の道の雰囲気を味わうことができる。
 なお、この道についての詳細なレポートは、廃道探索レポートサイトとしては有名な「山さ行がねが」の中で「金沢区朝比奈の"脅迫的な"市道」にて取り上げられている。特に来歴についての調査は詳細に及んでいるので、興味のある方は検索して見に行ってみるとよいと思う(この道は「廃道」ではなく、ちゃんとした現役の道なので、誤解なきよう^^;;)。

「鼻欠地蔵」脇の、国境の道の入口。
最終的にはハイキングコースの道幅になり、歩行者ならば通行は十分可能。
左側の看板の文言はもちろん、右側の車幅制限1.7mというのも…

 一方、南西方向は宅地開発により、地形が原型をとどめない状態になってしまい、どこが旧国境だったのか、辿ることが困難な状態になっている。ただし、横浜横須賀道路のトンネル上など、一部に開発されなかったエリアが残っており、ごく一部であるが断片的に国境であったことが判る部分もある
 この区間の旧国境については、個人サイト「放浪・神奈川」内のコンテンツ「神奈川県一周」の中の「スピンオフ企画・武相国境」にて、実地調査を中心に述べられている。上記の鼻欠地蔵北西側の尾根道も踏破されている。筆者も参考にさせてもらったので、興味のある方は検索して読みに行ってもらうことをお勧めする。

三信住宅エリア内に残る未開発地で、旧国境であると確定されるエリア。
横浜横須賀道路のトンネルは宅地開発以前からあった?ので、
その上を開発するわけには行かなかった?、のか、どうなのか?
旧国境は画面中央のこんもりとした森?の部分を左右に横切っています。
三信住宅エリアへ神奈川県道23号線から入ってくるメインストリート。
坂を上ってきて住宅街に入ったあたりから撮影。
この坂道のどこかで旧国境が横切っているはずです。
同じ道を坂の上から県道方向を向いて撮影。
左上の森?の部分は、2つ前の画像の旧国境であることが画定している部分。
「三信住宅」バス折り返し場付近からの風景。
送電線の鉄塔が2つ並んで立っている辺りが旧国境確定地。
なお、この送電線は三信住宅エリアの開発が進む前から存在した模様。

 なお、三浦半島中央山稜=旧国境となっている区間のうち、横浜市金沢区と逗子の間を結ぶ神奈川県道205号金沢逗子線が池子隧道にて潜る峠付近から、横浜・逗子・鎌倉の三市境=久良岐・三浦・鎌倉の三郡境の間は、現代では米軍(住宅)用地になっているため、米国の軍属でもない限り、旧国境を辿ることは困難になっている。

バス路線

 上述したように、神奈川県道23号線には多数のバス路線が設定されている。大きく分けて3つに分類される。そのうち、県道23号線をそのまま進み相武隧道を抜けて大船方面に向かう路線と、隧道の手前で神奈川県道204号金沢鎌倉線に折れて朝比奈峠を越え鎌倉方面に向かう路線は、各々、相武隧道・朝比奈峠で三浦半島中央分水嶺を越えている。3つ目に分類される三信住宅方面に向かう路線については、少々説明が面倒なので後述する。
 下の地図では、完全に旧相模国側に入っているように描いた「大道中学校前」のバス停留所であるが、その後の現地調査の結果、金沢文庫駅方面のポールは、完全に武蔵国側に建っていることが判明した。行きと帰りで「国」が異なる停留所は、以前の記事の湯河原温泉内の「泉大橋」バス停に似ているが、こちらのバス停は、現代では往路復路とも神奈川県横浜市金沢区内、である。

現場付近に絡むバス路線一覧図。
縮尺とかコーナーとかの具合は適当なので、ご留意を。
鼻欠地蔵直近の「大道中学校前」バス停に停車直前の"金24”系統上郷ネオポリス行。
相武隧道を潜る路線だが、日中は90分間隔なので、どちらかといえばレアな系統。
バスの尻尾の辺りが旧国境で、手前が武蔵国/奥が相模国です。  
「大道中学校前」バス停停車中の"鎌24”系統鎌倉駅行。
朝比奈峠を越えていく路線です。
車体は完全に相模国内です。
「大道中学校前」バス停に接近中の八21"系統三信住宅行。
バスの先頭辺りが、ほぼ旧国境真上になります。
道が広くなってる箇所がバス停で、鼻欠地蔵のほぼ真正面です。
逆方向のバス停は、鼻欠地蔵の先、人が立っている辺りです。
旧国境付近に接近する"鎌24"系統金沢八景駅行。
この系統には通常便のほかに「りんどう号」と名付けられたレトロ風バスが走っています。
30分間隔の通常便に上乗せする形でダイヤ設定されています。

1.相武隧道を潜る路線

 最初に書いておくが、相武隧道の開通は第二次世界大戦中の1944(昭和19)年である。この段階では相模国鎌倉郡峠村は既に横浜市磯子区の一部となっていて三浦半島中央山稜が国境になっていたので、相武隧道の名前の由来は模・蔵で間違いではない。
 また、相武隧道の両端は、現代では金沢区/栄区の違いはあるがどちらも横浜市内になっている。後で説明するが、横浜市栄区は元々相模国鎌倉郡に属する領域であり、武蔵国久良岐郡に属する領域であった金沢区とは、「郡」どころか「国」も異なる。ちなみに、隧道の中間部分で鎌倉市の領域を通過しているが、この部分には地上への換気口や非常用通路の類すら存在しない。
 閑話休題。
 相武隧道を潜る路線は神奈川中央交通の担当で、"船08"系統大船駅~金沢八景駅がメインとなる。日中はほぼ毎時2本の運転である。途中の本郷車庫折り返しが"金28"系統だが、これは出入庫限定なのでレア。県道から外れて住宅街である上郷ネオポリス発着となるものの主力が"金24"系統、平日朝混雑時に一部区間をショートカットするものが"金25"系統となっている。日中は"金24"系統のみ90分間隔の運転である。

相武隧道西口最寄りの停留所である「横浜霊園前」に停車中の
"船08"系統金沢八景駅行。
相武隧道西口=相模国側の様子。
側溝の蓋の幅ですが、隧道内にも歩道はあります。
相武隧道東口から出てくる"船08"系統金沢文庫駅行。
相武隧道東口へ進入する"船08"系統大船駅行。
この先の道程は非常に長いです。

 系統番号(の数字部分)が1桁となる系統の場合、一般的な東京式を採用する会社(神奈川中央交通が該当)では、"船08"系統のように"0"を加えて2桁表記としている。しかし、京急バスグループの場合、以前の記事で取り上げた"追1"系統のように1桁でそのまま表記しているのが興味深い。
 また、神奈川中央交通は金沢文庫駅発着となる路線には""の頭文字を使っているが、京急バスは"八"の文字を使っている。同じ駅を拠点にする系統でありながら頭文字の漢字が異なる系統が存在する。これは、京急バスは金沢文庫駅にも乗り入れる(こちらは"文"を使用)ため区別する必要があるが、神奈川中央交通は金沢文庫駅に乗り入れていないので、地名として分かりやすい(??) "金"の文字を使ったと考えられる。

2.朝比奈峠を越える路線

 鎌倉方面から六浦に抜ける道が、昔からの古道である朝夷奈切通から朝比奈峠を越える新道に切り替わったのが、1956(昭和31)年である。相武隧道が三浦半島中央分水嶺を直線的なトンネルで潜っているのに対し、それより12年後に開通した朝比奈峠にはトンネルが無く、急なコーナーで峠を登り詰めそして降る、いわゆるワインディングロードであることが興味深い。これは各々の道が建設された時代(戦中/戦後)と道路に持たされた役割?が反映されている、と考えれば、納得できるかもしれない。
 朝比奈峠を越える路線は京急バスの担当で、峠を越えるのは"鎌24"系統鎌倉駅~金沢八景駅のみである。この系統は金沢八景側のローカル折り返し便が無い代わりに、峠の少し西側にある「鎌倉霊園正門前太刀洗」折り返しとなる"鎌23"系統をはじめとして、鎌倉市内で枝分かれする系統が2つ存在する。運転本数は全区間直通の"鎌24"系統が日中30分間隔。峠は越えずに鎌倉市内で折り返しとなる"鎌23"系統も毎時2本の運転で加わり、最終的に鎌倉駅口で見ると、途中で合流する他の系統も合わせて平均毎時8~9本程度の頻発運転になっている。

三浦半島中央分水嶺である朝比奈峠を越える"鎌24"系統金沢八景駅行。
本シリーズ「まえがき」の記事のトップ画像でも使っています。
朝比奈峠の横浜・鎌倉市境地点。
案内標識が色褪せかかっていて、貫禄?がでてきつつあります。
朝比奈峠から横浜市金沢区側の風景。
急勾配・急カーブが続きます。
朝比奈峠から下ってきて県道23号線との交差点で停車中の
"鎌24"系統金沢八景駅行。

 なお、金沢八景駅には、神奈川中央交通の"金24"系統上郷ネオポリス行と "鎌24"系統鎌倉駅行2種類の"24"系統が発着するので、漢字の頭文字を省略し系統番号だけで乗るバスを判断すると、意図した場所と異なるところに連れていかれる危険性?がある。おまけに、前者の沿線には「横浜霊園」が、後者の沿線には「鎌倉霊園」があるため、混乱しやすい状態に拍車をかけている。

3.三信住宅へ向かう路線

 さて、この章の冒頭で説明は後述すると書いた、上二者以外の路線が曲者である。大道中学校入口交差点で一旦武相旧国境を越えるのだが、その先の交差点で南に折れた後、もう一度旧国境を越えなおすのである。担当は京急バス追浜営業所。
 該当するバス路線は"八21"系統金沢文庫駅~三信住宅で、ごく一部が追浜駅発着で金沢文庫駅にも立ち寄る"追21"系統となっている。追浜駅発着便は以前の記事で書いた「天神尾根切通」も通るので、合計3度国境を越えることになる。運転本数は全部合わせて日中は毎時3本なので、鼻欠地蔵の前を通過する系統としては一番本数が多いことになる。
 古い地図と照らし合わせてみると、終点の三信住宅バス停留所付近は武蔵国久良岐郡内であることが判るので、どこかでもう一度武相国境を越えているはずなのであるが、他ならぬ路線開設の切欠となった三信住宅の開発により、バスが通るルート付近は完全に地形が変わっていて、どこが旧国境であるのか判然としない。可能性としてはこの交差点の所っぽいけど地形の目印?は何もない、とか、この坂道のどこかで越えているはず、とかいう状態である。一応、画像は載せておくが、必ずしも正確に旧国境であったとは言い難いということを記しておく。
 ちなみに1の相武隧道や2の朝比奈峠は、三浦半島中央分水嶺であるが、国境になったのは明治期以降である。本記事では国境越え路線をメインに扱っているので、実は3の三信住宅へ向かうこの地点の方が重要なのであるが、地形どころか地名区分も全く改変されているので、調査の手がかりが非常に少なく、正確な場所が特定できないのは、勘弁願いたい…

旧国境と思われる交差点に進入する"八21"系統三信住宅行。
旧国境は交差点を奥から手前に斜に横切っていたと(この時は)推定しました。
左側が相模国/右側が武蔵国になります。
同じく旧国境が通ると思われる交差点を通過する"八21"系統金沢文庫駅行。
奥が武蔵国で手前が相模国です。
奥の赤茶色の大きなマンションの敷地を手前から斜めに
旧国境が横切っていたと(現場では)推定しました。
終点間近で横浜横須賀道路を陸橋で越える"八21"系統三信住宅行。
この地点は完全に武蔵国内であることは確認済。

4.それ以外(?!)の場所で旧国境を越える路線

 ここまでで取り上げてきた路線は、すべて「大道中学校前」バス停付近の「鼻欠地蔵」付近で(一度は)旧国境を越えるものである。しかし、それ以外の場所でのみ旧国境を越える路線が2種類存在する(2022年9月現在)。

 1つは"文2"系統金沢文庫駅西口~野村住宅南口の路線である。この路線の主系統は、途中の「野村住宅センター」で折り返す"文1"系統で毎時3~5本の頻繁運転である。その中の早朝の金沢文庫駅行の1便/深夜の金沢文庫駅発の1便のみが"文2"系統として「野村住宅南口」まで延長運転する。地元住民でなければ乗車する難易度が非常に高いと思われる路線である。運転される時間から考えると、行った便が折り返してくるわけではなく、別ルートで車庫との間を回送しているように思われる。
 旧国境を越えるのは、端点の「野村住宅南口」停留所と1つ手前の「関ヶ谷」停留所との間である。ぶっちゃけ、野村住宅として開発されたエリアを抜けた先であり、乗降客があるのかどうか、非常に怪しい。ただし「野村住宅南口」の停留所から先に数十m進めば、神奈川県道23号線が横浜横須賀道路と接続する朝比奈インターチェンジの内部にでる。内部といっても自動車専用道路に直結しているわけではなく、軽車両の通行は問題ない。歩道の繋がり方はかなり歪?な状態であるので、自動車に轢かれたくないのであれば、最大限の注意を要する箇所がある。

「野村住宅南口」の始発バス用ポール。
1便しか記載がありませんが、土休日も運転されるようです。

 また、本章冒頭で述べた、鼻欠地蔵の脇から伸びている旧国境沿いの遊歩道(実は江戸時代以前からの古道)が、地形改編の煽りを食らって末端が階段化された上で、この区間に出てくることになる。

鼻欠地蔵脇から続く道の出口。
出口の部分は宅地開発に伴う道路新設のため、階段になっちゃっています。
国境の道出口付近の遠景。
峠状になっているピークが、おそらく旧国境。
バスは早朝に1本行って、深夜に1本帰ってくるだけです。
(なので、撮影は勘弁を….)

 もう1つは京急逗子線六浦駅西口を経由し、南側から三信住宅エリア内を循環する"朝1 / 朝2"系統東朝比奈循環線である。"朝1"と"朝2"系統の違いは、単なる循環線か、1周したのちに停留所5つ分延長運転するかの違いである。コミュニティバスサイズの小型車での運転である。この系統は六浦駅北側=三信住宅側を8の字型に循環し、六浦駅側の神奈川県道205号線には出てくるが、北側の神奈川県道23号線にはでてこない。運行拠点は8の字の結節点となっている「三信住宅」停留所である。
 この路線は、新型ウィルス感染症による乗客減少の影響を受け、2021年10月、最初に現地調査を行った時点では運休中であった。社会実証試験運行路線だったこともあり、停留所のポールも一部が撤去されていたので、このまま廃止かと思われた。専用車と思われる車両が三信住宅停留所の折り返し場に留置されていたのを目撃しており、この車両はどうするんだろう?、と率直な疑問を持った。
 それが、最近(2022年になって以降?)になり、運行再開した模様であった。しかし、数度に渡る現地調査の結果、この系統は2022年9月いっぱいで実証試験運行を終了することが判った。

三信住宅バス停の折り返し場に留置されていた頃の、"朝1/朝2"系統専用車。
(2021年10月の時点)
正直に言って、この時には、まさか路線復活するとは思っていませんでした。
"朝1/朝2"系統実証運行終了のお知らせ。
「三信センター」停留所にて。
復活して1年?持たずに運行終了するとも、思っていませんでした。
2022年9月の「三信住宅」折り返し場の風景。
東朝比奈循環線はバス1台で運行してるはずなのに、何故か2台居ます,,,

 旧国境を越える箇所のうち1か所は前節で取り上げた"八21 / 追21"系統と同じ場所=三信住宅内で続く長い上り坂の途中のどこかであるが、もう1か所が三信住宅内西部の独自路線となっている場所である。こちらも、旧国境だった頃の地形が完全に変わってしまっている箇所になる。

"朝1/朝2"系統独自区間で、国境越えとなる場所の推定地。
見えているバス停は「朝比奈小学校入口」。
この中のどこかで旧国境が横切っています。
旧国境疑定地付近を通過する"朝1"系統三信住宅循環線。
この風景も2022年9月一杯で見納め。
もっとも、見られた期間は極端に短かった、かも?
"朝1/朝2"系統経路上の道端にて。
敢えてコメントはいたしません。

 ちなみに、以前の記事で取り上げた"六1~六4"系統は六浦駅の南口を発着するのに対し、"朝1/朝2"系統は六浦駅北口の県道205号線上に停留所がある。中間停留所の扱いなので、ここでバスが待機していることは無い。

番外.逗子への峠道:池子隧道

 バス路線が通っていれば1つの独立した記事になるべき道路であるが、バス路線の設定がないため、この記事の中で説明する。
 神奈川県道県道23号線の南側、三信住宅として開発された尾根筋1つ挟んだ先に、旧国境越えとなる神奈川県道205号金沢逗子線が存在する。池子隧道で国境を越えるのだが、この区間=現在の横浜・逗子の市境となる区間には、バス路線の設定がない。
 逗子市側は、市境のかなり近いところまで”逗31 / 32"系統逗子駅~笹倉が合わせて1日6往復だけ入ってきている。これらの系統は"逗30"系統逗子駅~アゼリア循環線の枝系統で、先に県道205号線上の笹倉へ入り折り返してから県道南側に広がる新興住宅街アゼリアの内部を循環するものが"逗31"系統で朝に3本、先にアゼリアを循環した後に笹倉まで足を延ばすものが"逗32"系統で午後に3本の運行となっている。

逗子駅前で発車待機中の"逗32"系統アゼリア経由笹倉行。
バスが来るまでこのサイズの車だとは思いませんでした。
笹倉の折り返し場を出ようとする"逗32”系統逗子駅行。
笹倉折り返し場の全景。
登ってきたバスはUターンするようにこのスペースに入り客扱いします。
池子隧道西側=逗子市側=相模側坑口。
背後の尾根が三浦半島中央分水嶺。
池子隧道東側=横浜市側=武蔵側坑口。
隧道内に歩道は無いので、歩行には注意が必要。

 しかし、横浜市側は六浦駅界隈までバス路線の設定はない。その路線も六浦駅周辺の住宅街を循環する、上述した"朝1/朝2”系統が、六浦荘団地前~六浦地区センターの間の停留所3つ分を通るだけであり、県道205号線を金沢八景方面へ直通するバス路線は無い(代わりに、京急逗子線が平行している)。ちなみに、以前の記事で取り上げた"六1~六4"系統は六浦駅南口に発着するため、県道205号線には出てこない。

池子隧道の六浦側でバス路線が復活する交差点遠景。
(ただし、2022年9月末日まで)
しかも県道205号線本線上ではなく、バイパス扱いとなってる市道上です。

 なお、県道205号線は、六浦駅西口から暫く進むと、”船08"系統や"鎌24"系統が通る県道23号線に、六浦停留所付近で合流する。この合流する手前の一部区間が、昔からの「浦賀道」の一部であり、その当時(概ね明治前期まで?)は平潟湾がこの付近まで入り込んでいた。

行政区画の変遷

 1889(明治22)年に町村制が施行された段階で、武蔵国側は久良岐郡六浦荘村であった。相模国側は、江戸期に鎌倉郡峠村であった領域が町村制施行時に周辺の村と合併し、鎌倉郡東鎌倉村大字峠となる。1894(明治27)年に東鎌倉村は西鎌倉村と合併して鎌倉町が発足するが、1897(明治30)年、元々峠村であった領域=三浦半島中央分水嶺より東側のエリアが久良岐郡六浦荘村に編入されたため、武相国境も分水嶺を辿るようになる。1939(昭和14)年、鎌倉町は腰越町と合併して市政を施行し鎌倉市となり現代に至る。一方、武蔵国久良岐郡六浦荘村は、以前の記事「天神尾根切通」などで述べたように、1936(昭和11)年に横浜市に編入され、磯子区の一部となる。1948(昭和23)年に磯子区から金沢区が分離され、現代に至っている。
 ただし、相武隧道が抜けた先西側のエリアは、同じ鎌倉郡でも本郷村に属する領域であった。本郷村と東鎌倉村はいわゆる「鎌倉アルプス」と呼ばれる丘陵地帯によって隔てられている。本郷村は1939(昭和14)年に郡境を越えて横浜市に編入され、戸塚区の一部となる。1986(昭和61)年に横浜市栄区として分区され、現在に至る。
 このような地形・歴史のため、現在でも同じ横浜市でも栄区と金沢区の間を直接往来できる自動車が通行可能な道は、相武隧道を除いて存在しない。その相武隧道も、トンネルの中間部が鎌倉市の領域になっているため、厳密には両区を直接結ぶ道ではない。金沢区の北隣の磯子区にも、栄区と直接往来できる自動車が通行できる道は存在しない(そもそも区界の区間がさほど長くない)ため、旧国境=三浦半島中央分水嶺はそこそこ険しいことを実証している。

おまけ、というか、今後の抱負?

 横浜・鎌倉・逗子の三市境は、久良岐・鎌倉・三浦の三郡境でもあるなので、一度行ってみたい。米軍(住宅)用地を挟む関係で、横浜・逗子・横須賀の三市境から縦走することは米国軍籍でもない限り不可能だが、六浦駅方面から尾根筋沿いに遊歩道が整備されている。鎌倉市側から「鎌倉アルプス」を縦走するのも良さそうである。三郡境から分水嶺を北へ縦走して円海山へ至る道も、途中で交差する車道がなく、気持ちよく歩けそうである(体力があれば?……汗)

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