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田宮二郎主演の映画「白い巨塔」(昭和41年)レビュー「田宮二郎は…「自分の人生」を投影して財前五郎の生涯を演じ切って死んで行ったと愚考する次第である…」

俄かに僕の…。
山崎豊子氏の「白い巨塔」全5巻のレビューのアクセス数が増えている。
「理由」は明々白々である。
昨日(2024/5/20),BSNHKで田宮二郎主演の
映画「白い巨塔」がテレビ放映されたからである。

映画「白い巨塔」は原作小説の第3巻までが映画化されている。
即ち…。
1.極めて優秀な外科医だが傲岸不遜な男・財前五郎助教授が
教授の椅子を目指し激しい政治闘争を演じ,見事教授の座を勝ち取る
「教授選挙戦」編。(第1巻から第2巻中盤まで。)
2.今や教授となった財前が胃の噴門癌の手術を行った際,
肺への転移に気が付かず,結果患者を死に至らしめ,遺族から告訴される
「法廷闘争」編。(第2巻中盤から3巻まで)
迄が映画化されているのだ。

何故全5巻全てが映画化されなかったのか?
本レビューでは「そこのところ」を解説したい。

まず原作小説の「白い巨塔」は当初全3巻で一度完結した作品で
昭和40年7月に新潮社より刊行されている。
その原作小説を基に大映が田宮二郎を主演とする
映画「白い巨塔」(昭和41年)を制作している。
つまり映画の「白い巨塔」は原作の完全映画化なのである。

しかし…財前の誤診によって
亭主が死に至らしめられた事を不服として
細君が起こした訴訟が被害者側の敗訴で結審し
被害者側の証言台に立った里見助教授が
医学者生命を絶たれたも同然の
左遷の辞令を不服として進退伺を提出し
「白い巨塔」=大病院を去って「終わる」
原作の結末には読者からの抗議が殺到した。

山崎豊子氏の創作意図としては,
この時点で「白い巨塔」は「終わり」であって
「苦く不条理な結末」こそ本作の「結末」であるとした。

「作家としては既に完結した小説の続きを書くことは
考えられないことであった(山崎)」

だが読者からの

「小説と言えども社会的反響を考えて
作者はもっと社会的責任をもった結末にすべきであった」

との意見に山崎氏の心が動かされて行く。

「生々しく強い読者の方々の声に直面して社会的素材を扱った場合の
作家の社会的な責任と小説的生命の在り方について
深く考えさせられた(山崎)」

こうして「白い巨塔」の完結から1年半後,
「続・白い巨塔」の執筆が開始されたのである。

「続・白い巨塔」は「白い巨塔」全5巻の
第4巻および第5巻に相当し
新潮社より昭和44年11月に刊行されている。

では何故映画「白い巨塔」の「続き」が作られなかったのか。

それは田宮二郎が有吉佐和子原作の
昭和43年の大映映画「不信のとき」の自分の扱いが小さく
自分よりキャリアの少ない女優が優遇された事に抗議した結果,
映画界を追放され
大映も映画業界の斜陽化で俳優・女優の流出が止まらず
昭和42年に映画事業の赤字・巨額の負債が顕在化して
急速に左前となり昭和46年に倒産しているからである。

映画界を追放された田宮の「ドサ回り」の一環として
テレビのクイズ番組「タイムショック」の司会業があった訳で
僕は「タイムショック」で田宮を知った訳であるが
田宮にとっては「映画俳優のこの俺が…」と
不本意極まりない思いだったのであろう。

田宮二郎は本名を柴田吾郎といい…。
同じ「ごろう」として財前五郎の生涯を演じ切りたい思いが非常に強く
二度に渡って自分を主演とする
「白い巨塔」の完全ドラマ化をテレビ局に提案するも頓挫。
1978年(昭和53年)のフジテレビによる
「白い巨塔」の完全ドラマ化が三度目の正直となった。
主演の財前五郎役は当然田宮二郎。

田宮は激しい躁鬱病と戦いながら財前五郎を演ずるが…。
躁状態の演技と鬱状態の演技に違いがあり過ぎ
里見を演じた山本學と対立し
田宮が海外に逃亡した際には最大1ヶ月撮影が停止するという
現実と虚構が入り混じる地獄絵図の様相を呈する。
田宮は3日間絶食して末期ガン患者を演じ…。
財前の遺書を自分で書き…。
斯くして撮影は辛うじて終了するが…。
田宮にとっては…。
未だ「白い巨塔」の財前五郎の演技は終わっていなかった。
彼は最終2話の放送を待たずに自宅で猟銃自殺する。
43歳の若さであった。

田宮は…「破滅して死ぬ」事によって
「財前五郎の生涯」を演じ切ったのである。

躁鬱病の結果自殺に至った田宮を美化する心算は毛頭ないが
大変な自信家の財前五郎の末路を鑑みるに
財前五郎の生涯を演じ切れるのは
「自分の人生」を役柄に投影して死んでいった
田宮二郎をおいて他にはないと愚考する次第である。

恐らく…この様な俳優は二度と現れないだろうし
二度と現れてはならないと僕は思うのである。

本作は大阪の医大の話であるから
田宮も大阪弁で話す。
こうした「当たり前」が映画の中で自然に描かれる事が
かえって「新鮮」に感ずるのである。

映画の中では
財前五郎を田宮二郎
東教授を東野英治郎,
鵜飼医学部長を小沢栄太郎,
大河内教授を加藤嘉,
里見助教授を田村高廣,
五郎の愛人ケイ子を小川真由美が
それぞれ演じている。

田村の演ずる里見の「辛気臭さ」に
「解釈一致!」と思わず叫んだ事を告白する。
里見は「清冽な好漢」ではなく「因循姑息な辛気臭い男」なのだ。
その里見が因循…昔からの基本に忠実な医療の段取り…に拘った結果,
「基本」を軽んじスタンドプレイに終始する財前を追い詰めて行くのだ。

原作小説は新潮社の「サンデー毎日」誌の連載小説であるから
作中「サンデー毎日」が度々登場するのは当然なのである。

映画では
財前が教授となって
ドイツに行っている間に患者が死に至る原作の描写が
財前が教授選にかまけて患者をおろそかにした結果,
教授選の決選投票の最中に
彼の誤診が元で患者が死ぬ描写に変更されている。

財前が「医学者の本分」を忘れた結果,
「教授の座」と引き換えに「患者が死ぬ」という
「原作の意図」を最大限に汲んだ良改変だと僕は思う。


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