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2023/01/10 雑記

 母親の聞いていた曲の歌詞が、何と言っているのか分からなかった。当時乗っていた小さな白い車の中で延々と流れていたいくつかの音楽。メロディーと声は曖昧な感じにほどけ、ひとつの水の流れのようになって、私の記憶に染み込むように残っている。そう、歌詞が分からない。それに加えて、曲の名前すら知らない。当時の私は幼すぎてそれらに関心を向けていなかったのだ。聞きそびれてしまった。あの曲たちを、ただ流れ続ける母親の好きな音として、あるいは車内の酸素、それか車窓の向こうの景色と同じくらい、ある種の透明なものとして認識していた。

 彼女の好きだった曲の歌詞を聞き取れなかったのは、当時の彼女が何を考えていたを分からなかったのと似ているし、曲名を知りもしなかったのも、彼女が何を抱えていたのかを知らなかったことと似ている。そんな風に思った。

 過去を振り返って、幼い頃の自分の幼さそのものを悔やむことほど寂しいことはないけれど、私はたまにそうしてしまう。ああ、あの時の私が今の私くらい大人で物分かりが良ければ、と思わずにはいられない瞬間がある。あの時の私が、ドライブ用プレイリストに入った曲の歌詞を少しだけでも掬いあげることが出来ていたら、と真剣に思う。考えても仕方がないこと。そして悲しいことに、私が真剣にそれらを思い悩み、責めるとき、本当に追い詰められるのは過去の幼い私ではなく、今を生きる母なのだ。

 無意味なことはもうやめましょう、と私は自分に言い聞かせるしかない。それが私以外の人間を悲しませずにすむ方法なのだ。(もちろん、周りの人間が悲しまないと、私は嬉しい。)

 最近、そんな歌詞の聞き取れなかった曲を思い切って聴いてみた。今まで何度か聴こうとしてみたけれど、「これで私の思い出が崩れたらどうしよう」と悩んで、再生ボタンは押さないでいた。
 今のこの私が、あれこれ事情と真実を知った私が振り返る、客観的な私の過去はどう考えたって悲しい。それならば、記憶の中、当時の私が「たのしい」と呑気に暮らしていた日々の、新鮮な楽しさ(当然昔のことなので、それは朧げなものになっている。しかし不思議なことに朧げながらも新鮮なたのしさ、というものが、私の中に存在している。)を保存しておく方がよいと思っていた。

 いざ、聴いてみると、その音楽は記憶の中のものとはだいぶ異なっていた。ヘッドフォンから、私のためだけに流れる音楽は一音も取りこぼさないので正確で、液晶画面をタイミングよく流れてゆく歌詞は、漢字も英語もカタカナも全て区別されている。それに、車窓の流れゆく景色も、延々の繰り返しもない。
 私の知っている、何年もよすがにしていた曲から、知らない曲へと3分程度で変わってしまった。新鮮な音。ただでさえ再生され続けた、数曲の音楽を、頭の中でさらに一部分に削って再生し続けていたのは私だった。

Traveling 君を
Traveling 乗せて
アスファルトを照らすよ
Traveling どこへ
Traveling 行くの?
遠くなら何処へでも
聞かせたい歌がある
エンドレスリピート
気持ちに拍車かかる
宇多田ヒカル『traveling』

 私は母が何か歌を口ずさむのを、聴いたことがない。