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眠れない

眠れぬ夜に布団の中でイヤホンを耳に突っ込んで、ジムノペディ第1番を流す。
メロディーは、右手も左手も指の運びは至ってシンプルで、盛り上がる部分も特に無くてゆっくりなリズムが終始単調的に続く。
ジムノペディ第1番の演奏者に与えられた指示は「ゆっくりと苦しみをもって」だ。
コチコチと聞こえる時計の針が進むスピードがいつもの1/10に思えて、何度も寝返りを繰り返すのにぴったりな姿勢が見つからない。
ただでさえ気怠い夜にゆっくりとした苦しみをもって脳内は揺さぶられる。
穏やかなリズム進行のこの曲に、言いようもない不穏さを感じるのは和音の姿をしていない不協和音が散らばっているからだ。
滑らかに繋がっているように見えて、実は知らない方がいい小さな隠し事が、張りぼてのレールの下に埋め込まれている。
ピアノの鍵盤を押して生まれるひとつひとつの音が、平穏な時間を過ごす時の心臓の鼓動に聞こえる。
平時だからこそ感じ取る鈍痛。
ジムノペディは第2番、第3番になるごとに不穏さが増す気がする。
第1番とリズムやメロディー進行はすごく似ていて、第1番を変調して出来ているようだ。
第2番、3番に気味悪さを感じるのは、第1番のメロディーを正しいと信じているからだろうか。
何でも、最初が正しいと誰が決めた。
きっと朝になったら白々しく思うこの情緒が、ぼんやりとしか見えない暗闇の中では、唯一分かる自分の感情だったりする。

だから、なんだよ。
寝返りをうつことを諦めて静かに仰向けになると、涙が頬に伝ってくる。
何が悲しくて、何が寂しくて泣いているのかも分かっていない。多分、特にこれという理由はない。
じゃあ、安心なんだろうか。温かい布団にくるまって暗闇の中でゆったりとしたメロディーを聴く、潜在意識で感じる安心感。
でも、安心を感じるにはジムノペディは悲しい。

眠れない夜には、宇宙のことを考えて、そしてとてつもなく怖くなる。
布団の外には家があって、その外には冷たい風が吹く「外」があって、「外」には星が疎らにある夜空があって、それは紛れもなく地球の中にあって、空を突き抜けると、宇宙がある。
地球は宇宙の中にあることは分かっているけれど、宇宙の外側はどこまで行っても何もない。
どうやって出来たのかも、何のために存在しているのかも、もはや存在という概念すらない宇宙というものの置き場所がない。
でもわたしが怖いのはきっと、宇宙の得体の知れない不気味さよりも、「永遠に終わりのない世界」というものが怖いのだ。
終わりなく歯車を回し続けるハムスターになった気分になる。

そのくせに、「いつか命が絶えること」を想像してまた怖くなる。
小さい頃から、想像し得ない「死」というものを想像しては、自分の呼吸がこのまま無くなるのではないかと不安になって、眠れなくなる。
眠れないから、その恐怖は、自分の思考が止まることなのか、肉体が無くなってしまうことなのか、自分の大切な人達ともう二度と会えなくなってしまうことなのか、そのどれに当てはまるのかを必死に考えようとした。
でも、答えは、出なかった。
とにかく「終わる」ということが怖いのだと思った。

終わりのない世界を怖がるくせに、終わるということをまた怖がる矛盾が、わたしを生かしている。
いつか「終わる」ということを怖がることなく受け入れることができるようになったら、この思考に、この肉体に終わりが来るんだろうと思う。

だから、なんだよ。
難しいことを考えることをやめれば、一瞬で平穏に過ごしている日常に戻れることを知っている。
温かい布団にくるまっていて、大切な家族も友人もいて何にも失っていなくて、わたしには意味も未来も何も考える義務など無くて。
平穏に差し込まれる哲学的な無意味な思考を止められたら、わたしはゆっくりと幸福に落ちて深く眠れるはずだ。

耳からイヤホンを抜き取って、ジムノペディのメロディーは静かに鳴り止んだ。
ピアノの鍵盤を思い浮かべて音階を口ずさむと、情緒を揺さぶるメロディーも、ゆったりと動き回る指から奏でられる音の繋がりに過ぎないと思うようになる。

わたしが思考の海に溺れて眠りにつけない夜も、機械的に時計の針が回って通り過ぎていく時間のひとつに過ぎない。
みんなこんな夜を過ごすことがあるんだろうか。
「わたし」が、人間に生命体に物質にカタチを変えて、答えが見つからない思考の海底二万マイルに溺れていく感覚。
息が苦しい。

好きなアーティストの動画を脳内で再生して、友達が語った恋愛論を思い出して、明日の洋服を考えながら、深い思考の海から布団の上に眠るわたしにカタチを戻していく。睡眠。

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