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泣きながら飯

「泣きながらご飯を食べたことがある人は生きていけるから大丈夫」というフレーズをツイッターで何度も見かけたことがある。
何が大丈夫なんだろう。
泣くくらいの状況でも食欲があるくらいメンタルが実は鋼って意味なのか、人間の三代欲求のひとつである食欲は失われていないから大丈夫って意味なのか、ご飯を食べているうちにご飯パワーで元気になるから大丈夫って意味なのかよく分からない。
でも、「生きていけるから大丈夫」の部分には何故だか根拠なく同意してしまう。
そう考えるとご飯を食べることって生命維持の為だけじゃなくて、「生きています」っていう実感を保つためにあるのかもしれない。

わたしは、普段はよっぽどのことがないと食欲を失わない人間で、熱が出ていても急いでいてもご飯だけは絶対に食べる。
胃腸風邪にかかって、食べ物が生理的に受け付けなくなったときですら、みかんゼリーを完食していた。
ご飯を食べないと無性に悲しくなるからだ。
食事内容よりも「食べる」という行為を抜かすと、チャージポイントをひとつ失ったみたいな気分になる。
と言いつつ、実際に「食欲を完全に喪失する」体験を何度かしたこともある。

かなりキツかった。
食欲と感情はいつも反比例していて、心がぐちゃぐちゃな感情で溢れそうになると、そのストッパーとして、食べることで満たされようとする。
でも、心が空っぽになると、途端に食べ物を受けつけなくなる。
「空虚」という酸素のない空気みたいなガスで心が埋め尽くされると、透き通っていた感情は、磨りガラスみたいになって自分でもその中身がよく分からなくなる。


大学4年生の夏、どうしてもそこに行くと決めていた職種があった。そのために、民間の就職活動は一切せずに毎日予備校に通って勉強した。
そしてその末に、希望していた職種の採用試験に落ちた。

わたしはこれからどうするんだろう。
就きたい職種を諦めて、これから就職活動をすればみんなと同じように来春には就職できるはずだ。もし、諦めずに来年も受けるならば、もし来年も落ちたらいよいよ先が無いかもしれないリスクと、卒業前の思いっきり遊べる期間を犠牲にしてひとりぼっちでもう一度勉強する気力と闘わなければならない。色々と考えながら将来への不安と自分への絶望で夜通し泣いたら、胃がキリキリして、ご飯が少しも食べられなくなった。気が付いたら、まともにご飯を食べられないまま数日間が経っていた。
「お願いだから、ご飯を食べて。心配しています。」スマホには同居しているおばあちゃんからのメールが入っていた。
不思議なことに、食べる気は全くしなくても、生理現象でお腹はちゃんと空く。
その時初めて、もしかして今お腹が空いているかもしれないということを思い出した。
仕方なく、勉強の合間によく通っていた予備校の近くの丸亀製麺へ入った。
大好物の「釜玉うどん」を注文して、天かすとネギと出汁醤油をたっぷり入れてかき回す。
いつもだったらめちゃくちゃご馳走だけど、かき回している最中に箸を置きたくなった。
ぐーっとお腹が鳴っている音は聞こえるけど、いざ食べ物を目の前にして口に運ぶと、胃が受け付けないのだ。
食べていないはずなのに心臓の方からぐーっと押し寄せる満腹感。
思わず、食べ物って胃じゃなくて心臓に入るんだったっけって錯覚しそうになるくらい、心臓のあたりから食べ物を押し戻してきた。
大好物のはずのうどんが、白い粘土みたいに見える。

いつもひとりでご飯を食べる時は、イヤホンで音楽を聴きながら食べる癖がある。
スマホの音楽アプリからランダムで曲を流していると、母が好きだと言ってた平井堅の『桔梗が丘』が流れてきた。
何かにつまずきながらも成長する子供を想う母の気持ちが代弁されていて、こんな時にタイミングが悪くて涙が止まらなくなった。
すごく協力して応援してくれていた家族のことを思い出してこんな自分が情けないとか申し訳ないと思うそういう感情すら先回りで慰められている気がして余計に辛かった。


『忘れないで 何かに勝つときは負ける人の涙があることを いつでも。』
このフレーズがやけに脳内に響いたことを今でも覚えている。
ふざけんな。今、自分が泣いている側だと思うと、勝者に同情されているみたいでめちゃくちゃ嫌だった。
でも、乗り越えた先には、今人知れず泣いているわたしの反対側で、清々しい顔をしているわたしがいるのかもしれない。
この歌詞が狙った通りの解釈じゃないことは分かりながら、「この状況から脱出するためには、とにかく動かなきゃいけない」と思った。

そんな想像が少し出来るようになった途端、目の前のうどんがいつも通りの好物に見えてきた。
食べなきゃ、前へ進めない。
思い切って箸でうどんをすくって、口に詰め込んだ。少し冷めてしまったけど、相変わらず大好きな風味と鼻の奥がツンとするような少ししょっぱい感覚が混ざったような味がした。
うどんを食べながら泣いているワケありすぎるわたしに目もくれず、みんな丼の中のうどんに夢中になって食事をしている。
人って食べるときは、周りのことを気にするよりも目の前の食べ物に夢中になれるんだと思った。
その次の年、わたしは「桔梗が丘」の同じフレーズを聴きながら、泣かずに釜玉うどんを食べた。

曇天の次には雨が待っているけど、いざ、雨が降ってしまえば、それを通り越したその先には、雲が開けた空が見えるから大丈夫。
なんて綺麗事は、晴れた時にやっと分かることだ。
ざーざーと雨が降っている時に、降り止んだ後のことなんて想像できるわけがない。
冷たい。寒い。ジメジメしていて気持ち悪い。降り止んでほしい。
そう願ってひたすら雨が降り止むのを待つ時間に、出来ることは力を蓄えることだけで、
そういう意味の「泣きながら飯」なのかもしれない。

最後に、「泣きながら飯」には、ガツガツかきこめる丼系か麺類がいいかもしれない。
一口目の余韻をじっくりと残してはいけない。
余計なことを考える時間は作らない方がいい。
あとお茶漬けも良いと思う。出来れば本物のシャケの切り身とか入れたやつ。
胃を温めると、体温が上がって自然と心が落ち着くらしい。せっかく温めた身体を冷やすけど、そういう日はビールも飲んでいい。

ちょっとこなれ始め社会人のわたしの最近の泣きながら飯は、チューハイと冷凍餃子と卵かけご飯だった。


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