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落合陽一『ズームバック×オチアイ 過去を「巨視」して未来を考える』

落合陽一、NHK「ズームバック×オチアイ」制作班による『ズームバック×オチアイ 過去を「巨視」して未来を考える』 (NHK出版)は、NHKの番組「ズームバック×オチアイ」の書籍化である。

書店で手に取った人も、Amazonなどで取り寄せた人も、思っていたのより一回り大きいサイズと重さに驚くはずだ。

落合陽一の近著『半歩先を読む思考法』(新潮社)や『落合陽一 34歳、「老い」と向き合う』(中央法規出版)と比べると、その違いは顕著だ。

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他の二冊同様、カバーを取り外すと、表紙には落合の写真によるアートになっている。わざわざコストをかけて二重にする以上は、白地に黒か、黒字に白抜きのフォントではなく、表現の場として活用したいという落合の意向を反映したものとなっている。

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『ズームバック×オチアイ 過去を「巨視」して未来を考える』 は、コロナ禍にある現代の私たちが直面する様々な問題を、歴史上の類似の事例を取り上げ、その解決へのヒントを見つけ出し、サステナブルな未来への展望を得るというコンセプトでつくられている。

たとえば、第1章 ニューエコロジーでは、デズモンド・モリスの『バイソン』を取り上げる。『バイソン』は、絶滅危惧種となったヨーロッパバイソンの減少の理由が、12世紀にはじまった大々的な開墾であるとしている。

だが、重要なのは単なる自然破壊そのものというより、それが感染症のトリガーとなりうるということである。

1347年には、ヨーロッパ全土で半数近くの人が命を落としたと言われる、ペストの大流行が起こる。

落合陽一 感染拡大の大きな原因は、ペスト菌を媒介するネズミやノミが、森林伐採によって都市に侵出したことにも一因があったと言われています。ウイルスは自然のなかにとどまっていたのに、人間が木を伐採して防御を破壊してしまったのですから、ウイルスが都市に入ってくるのは必然かもしれません。生態系が破壊されれば、人類もその影響からは免れられないという一例でしょう。pp22-24

過去の事例は、コロナ禍にある現在を照らし出す。

 新型コロナウイルスも、自然界にとどまっていたウイルスが開発によってあふれ出た(スピルオーバー)可能性が指摘されています。現在の新型コロナウイルスと生態系の関係と、当時のペストとヨーロッパの開墾の関係は違いますが、感染症の拡大が、自然を開発し都市に人間が密集した結果として起きたのだとしたら、ある意味「人の手」によって引き起こされたとも言えるでしょう。p24

サステナブルな人類の未来のために求められるのは、経済活動の展開にともなう環境負荷の低減を前提とした「新しいゲーム」の創出である。

同じようにして、第2章 ニューエコノミーでは、1973年と1979年の二度のオイルショックへと遡りながら、危機においてこそ可能な社会のポジティブな変化、新たな社会の連帯のかたちを模索する。

過去の事例に遡る時には、必然的に何らかの書物や映像のアーカイブが呼び出されることになる。その意味で、本書はヴィヴィッドな本の紹介でもある。単にこのような本があるという紹介ではなく、最適化されたタイミングでの必須の参照項の紹介である。

第5章 まったなしの環境論では、日本が公害大国から環境大国となった転機としての水俣病を取り上げ、石牟礼道子の『苦海浄土 ―――-わが水俣病』を紹介する。第7章 暴走する「大衆」 動かす「大衆」ではオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』が予言した大衆の問題を、第8章 「新しい生活様式」における「孤独論」では、ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で描いた「孤独」とは異なる「孤立」の問題を取り上げる。

これらの行程の中で、『ズームバック×オチアイ 過去を「巨視」して未来を考える』が提示する未来への提言は断言的なものではなく、示唆的なものにとどまる。むしろ、それらの問題を参考資料とともに考える場を与えようとするものだ。学ぶべきなのはその思考法である。温故知新は、よく言われることだが、その適切な参照項目を、日本や世界の歴史の中に常に見つけ出し続けることは難しい。本書の中では、その実践編が、本の世界にとどまらず、映像のアーカイブを総動員した、集合知として提示されているのである。それを一層際立たせるのが、台湾の天才閣僚オードリー・タンや、哲学者マルクス・ガブリエルとの落合の対談である。

『ズームバック×オチアイ 過去を「巨視」して未来を考える』は、論理的思考や歴史的思考を身につけながら、多くの問題を抱えた21世紀のさまざまな問題に直面し、考えながら生きぬく必要のある、中高生や大学生に特に勧めたい本の一冊と言える。

本書から濃厚に感じるのは、2020年から2022年にかけてのコロナ禍のもとでの私たちの生活、そして思考と感情である。これは、歳月が経ったから、新しい時代の情報を入れて改訂するような類の本ではない。ヴィヴィッドな時代のドキュメンタリーとして、このままの形であることに価値がある。10年先、20年先、そして50年先にこの本を開いた人は何を考え、どんな感情を抱くのだろう。人類は、同じような問題をまだ悩み続けているのか、それとも多くの問題から卒業してしまい、新型コロナの時代を、ノスタルジックに過去の時代として語るのか、そんな歴史の視線を思わず意識してしまう本なのである。

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