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ハノイ・タクシー

初めてのベトナムに、降り立ったばかりの私を熱烈に出迎えてくれたのはタクシーの客引きであった。
偏西風に逆らう長時間飛行を終えたばかりである。であるのに、ターミナル間の移動が必要だった。到着口から客引きの群れが見えたが、無視してシャトルバスの乗り場へ向かう。
三宮でも難波でも、客引きにコストをかけるようなのはロクでもない。定めしハノイでもさもあらん。これはもはや世界の一般法則と言っても過言ではないだろう。
スーツケースを引っ張ってとりあえず空港シャトルバス乗り場に辿り着いた。

しばらくして、一人の男が現れた。若く見えた。しかし思い返せば、存外歳を食っていたのかも知れない。日の光があればもう少し印象が違っただろう。
その運転手は、容易く私から次のフライトの時間を聞き出すと、「間に合わんからバスはあかん。こっちにタクシー停めてるから早よおいで。」というのである。
実は私が乗って来た飛行機は遅れて到着した。台風のせいである。
早よう早よう、と言いながら運転手の男はこちらにひたひたと近づく。
既に日は暮れて、異国の夜である。ハノイは霧であった。
私は生来、優柔不断である。こんな時にも、遺憾無くそうであった。あるいは一人であることが一層そうさせたのかも知れない。人にも土地にも拠り所がない。
飛行機を逃せば、果たしてダナンに辿り着けるか分からない。更に言えば、今夜を過ごす場所にも困るに違いない。増すのは不安と焦りばかり。しかし時間は減るのみである。
おいでおいでと運転手が呼ぶ。呼ばれるにつれて尚のこと心細い。

気がつくと、タクシーに向かって案内されていた。運転手がちらりちらりとこちらを振り返りながら先導している。運転手のサンダルが、やはりヒタヒタと音を立てる。
バス乗り場から横断歩道を渡ってターミナルから離れていく。離れるにつれ暗さが増した。霧の中へと連れられている。
運転手が歩みを早めて、見るとその先に白い乗用車が停まっていた。
これが貴方のタクシーですか、と聞くと、そうだそうだと運転手が答えた。
屋根には何も載っていない。ばかりか側面にも前面にも、一つのロゴもない。死装束のように真っ白である。
白といえばというわけではないが、ここで運転手がいわゆる白タクの運転手であることに気づいた。
ここに至って、ようやく踏ん切りがついた私は、スーツケースを掴もうとする運転手の手から逃れてもと来た道を戻った。暗い駐車場を背に、煌々としたターミナルへ。運転手の呼び声を南無三と断って。
後ろからおい!安全なんだぞと声がする。いや良いですと答えた。それから先は、何やらベトナム語で捲し立てられたが、それもすぐに遠ざかって聞こえなくなった。

結局のところ、それは全くの杞憂だった。
つまり、私はシャトルバスに乗って、何らの問題なくダナン行きの飛行機に乗ることができたのだ。

帰りは逆順にターミナル間を移動する必要があったわけなのだが、夜遅く、バスは無かった。
これはいよいよぼったくりタクシーかと思いつつ、しばらく行ったり来たり発着場をうろうろしていると、制服のお兄さんがカウンターにいるのを見かけた。
どうやってターミナルを移動すればいいか教えて下さい、聞いてみたところ、1kmだから歩けば良いんだよと返ってきた。言う通りに歩くことにして、この時も無事辿り着いた。
結局のところ、タクシーも、シャトルバスすらも不要だったのだ。

運転手は、人の焦りと不安を煽って、それを飯の種にしていたのだ。こうして振り返ると、妖怪の類いに相違ない。
読者諸賢も、ハノイを訪れる折があればくれぐれも取って食われませぬように。

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