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続マクド

以前某所でマクドについて書いた。またこのnoteでもマクドについて書いたことがある。
したがって、タイトルに「続」が付いている。続が着くと駄作になるという向きもあるかも知れないが。

私を知る人は既にご存じかも知れないが、私はマクドが好きだ。まずはこれを表明しておく。
今回マクドについてまた書くのは、マクドのあるCMを見たからだ。
「マックは、ホームシックにすこし効く。」
という言葉を添えて、慣れない都会にやってきた女性が見慣れた看板のマクドに入り、家族で来たことを思い出しつつ、どこでも変わらない味とサービスに一息つく内容である。

*ここで言う「マック」はマクドのこと。妙ちきりんな呼び方に耳慣れないであろう読者の為に補足させていただく。ここではマックとシックで韻を踏んだ美文を崩すのに忍びなく、原文をそのまま引用した。マクドナルドの呼称については某所で散々書いたのでここでは書かない。

百人一首でホームシックと言えば、
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
という句がある。シュビドゥバな感じで帰りたい帰れないな感じな人が故郷を懐かしんでいる句である。
昔の人は唯一絶対の月くらいにしか故郷をうつうつせなかったらしい。
しかし今や、世は大量生産時代。規格化万歳、画一化万歳の、私が死んでも代りはいるものの社会である。ハンバーガーからも職人技のきらめきと魔術的な美が失われて久しい。車のフォード、食べ物のマクドである。
我々は浜で、野原で、街中でも丘でもどこであれマクドを食べることができる。同じマークで同じ制服で同じ味が運ばれてくる。素晴らしきかな工業化社会。
かくして月に代わってマクドがその任を果たす。違う時、違う土地で食べるマクドの味に故郷を思うことができるのである。

さて、同じといえば郊外住宅地である。
郊外住宅地もどこに行っても同じで違いが分からない。これもまた規格化やらその類いの技術によるものだ。プレハブ万歳。
郊外住宅地の映画と言えば、『耳をすませば』である。私も郊外住宅地で育ったものだから、あの坂のある街の風景や坂の上の図書館などは近所かと見まがうほどであった。
そしてこの主題歌がカントリーロードなのである。
最近文章が長いので、シンプルじゃないならベストじゃないので、オッカムに殴られそうなので、涙を飲んでカントリーロードは別稿で書くことにする。ひとまずはこの歌が素晴らしいということ、それから故郷を離れて頑張る歌だということを指摘するに留める。

以前ある先輩、それも郊外住宅地出身の先輩に地元の郊外飯を紹介してと言われて困ったことがある。都市について学んでいるのだから我々は常に、その土地に行けばその土地の物を出来るだけ食べることを心がけている。黄泉戸喫みたいなもんだろうか。私の地元の郊外飯を尋ねるのもそれである。
困ったのは、別に郊外住宅地の近所でご飯を食べないからだったのだろう。昼飯時であったから尚のことである。地元で過ごした期間の多くは子どもの頃であるし、車の運転も苦手なので、家と最寄り駅のラインを外れた移動を基本的にはしなかったことの害と言える。
しかしその時は気が付かなかったのだけれども、マクドが多分それなのだ。どこか他所へ行くわけでなければ、マクドがちょっと特別なご飯である。母やら父やらと車の中から、注文用のマイクに向かってメニューを唱える。それで、持って帰って家のダイニングテーブルに広げて食べる。
マクドのCMでカントリーロードが流れたときに、私は郊外飯をついに発見したのだ。
それは全然地元のものではなかった訳で、いつでもどこでも食べられるものだった訳であるが。

ともかく、私の郊外飯はマクドである。
従ってつまり、私が足繁くマクドに通うのは故郷を思ってのことであって、これは健康的で文化的な行いなのであることが示されたわけである。
であれば深夜にマクドに向かったとして何を憚ることがあろうか。
頭を挙げてメニューを望み、頭を低れて ハンバーガーをほおばりながら故鄕を思っているのである。

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