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手紙は相手への気持ちを深掘りできる魔法の道具

先日、久しぶりに手紙をかいた。手紙、全然かかなくなったなあ、と慣れない手つきで便せんに気持ちを書きながら、じんわりと思った。

そう、手紙を書く機会が、本当になくなってしまった。子どものときはルーズリーフを折った手紙をよく授業中に回していたっけ。高校や大学生の頃もLINEで連絡を取るようにはなったものの、祝い事やお別れのときには、手紙や色紙をかいて、渡していたように思う。

ふと、今の生活になって、誰かに手紙をかこうという気になっていなかったことを思い出して、少し寂しくなった。LINEのメッセージとはまた違う、あの気持ちが字に込められている感じや、その人の書く字はこんな風なのかなんて思い浮かべながら読み進める感じ、選んだ便せんやイラストなど、やっぱり、手紙だからこそ伝わる温かみがあるのだ。

そんなことを考えながら久しぶりに便せんを前にかいてみようとしたら、なかなか言葉にできなくて、焦った。普段感じていることを言葉にしようと軽い気持ちで便せんに向かってみたら、普段思っていることを表現する言葉が見当たらない、というような感覚。

たとえば、「○○さんのことが好き」と普段から思っている。けれど、いざ手紙を書いてみようとすると、「○○さんのXXなところが好き」の「XX」の部分を、なかなか適切な言葉で言い表せられないのだ。その人のことが好きなのは間違いないし、普段からその気持ちを持っているのだけど。いざ「言葉」にしようとしてみると、全然思い浮かばない。日頃どれだけ「言葉の曖昧さ」の中で暮らしているのか。

そういえば、日記を毎日付けている中で、自分の気持ちと向き合う時間は多いけれど、相手のことを思う気持ちを深めることってなかなかないことに気づいた。私自身がどういうときに嬉しくなるのか、モヤモヤの源泉は何なのかは、向き合って知っているけれど、相手を思う気持ちがどういうところから来て、どういう部分が私にそういう気持ちにさせるのか、あんまり考える機会がなかったな。

単に「○○さんのことが好き」という中でも、私は○○さんが優しいから好きなのか、気を遣わないから好きなのか、一緒にいると楽しいから好きなのか。

「好き」の気持ちの深掘りをじっくりとすることが、手紙を書くということなのかもしれない。自分なりの解釈を探す旅。普段の生活では「好き」だけで通り過ぎてしまえるけれど、いざ便せんを目の前にすると、ごまかせない。「XXのところが好き」と言語化せざるをえない環境だ。

手紙を書くということは、相手への気持ちを深掘りするということ。日記をつけて自分の気持ちを深掘りすると同じように。相手への私自身が感じている気持ちを紐解いていくことで、手紙を書き終わるころには、相手への愛おしさを改めて感じられるもの。

久しぶりに手紙をかいてみて、そんなことを思った。渡したときに、相手がどのような感じるか、というのも楽しみのひとつだ。

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