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多忙サラリーマンがUAL合格するまで①(就職〜転職決意までの前半)


今社会人5年目で、今年からUAL行くはずだったんですが、貯金するために1年延長させています。
てなわけで、社会人6年目でバックボーンのないファッション専門大学院(University of Arts LondonのLondon School of Fashion、MAコース)に進みます。
それまでの道のりも書いておきたい。
ちなみに、合格した大学は憧れも憧れの夢の大学。
合格の知らせは電車の中でメールを見て気づきましたが、飛び跳ねそうになるくらいマジで嬉しかった。
やっぱり何かに挑戦して合格するって楽しい。
行きたい会社から内定通知もらった時と同じくらい、嬉しかった。
そう考えると、行きたいところから合格通知もらえてる自分は幸せ者やなあ。(いきなり)

でも大変やった。し、今も大変。

なぜ、急にUALを目指したのか

大学〜入社

私は大学は関関同立。その後Big4と呼ばれる大手外資系コンサルファームに就職しました。
つまり、ファッションのバックボーンはありません。
とは言っても、小学生の頃から服が好きだった。理由は簡単。
母親がアパレル会社で働いていたから。
ちなみに母親は、大阪モード学園に通ってたくらいファッション好きでした。
そんな母の働き方を見ていて、「ファッション業界は儲からないのにしんどい」というイメージがありました。
※母親は女手一つで私を不自由なく育ててくれました。大学まで行かせてくれた。大感謝してます。

あと、ラッキーなことに私は勉強好きでした。結局関関同立にしか行けませんでしたが、京都の国立大学を受けてました。(そこにしか行きたい学部がなかった)まあ落ちたし、浪人しても受かってないと思うので、現役で私大を選んで良かったとは思ってますが、そんな私に母は、「せっかく勉強できるねんから、勉強できる人しかできへんことやり」とよく言ってました。
昔から、何もやりたいことがない時は一番上を目指せ。そしたらやりたいことが見つかった時に選ぶ権利があるから。という教えを受けてました。
だから高校は、県内一番の公立高校に進学することができました。
ただ、途中から、やりたいことに蓋をして、社会で認められるエリートを目指してしまっている感も、なきにしもあらずでした。

というか、何が一番やりたいことなのかは分かってなかった。
(今は遠回りしましたが、心の底からファッションと叫べる。)
大学時代、いろんなバイトをしましたが、居酒屋とかマジで続かなかった。集団授業の塾講師もしたけど、完璧主義で責任感が強すぎる(褒めてないです。責任感強すぎて損することが多いです)私は、なぜか小6の国語を受け持つことになり、彼らは小学校が終わっても遊ばずにこんなに一生懸命勉強してる。適当にやってられない。という意識が働き、彼らの合格不合格を担っているプレッシャーなどから、サービス残業で丸つけや授業準備をバカ丁寧にやり、実質時給の悪さに続きませんでした。
で、唯一続いたバイトがセカンドストリートの販売員だった。
めちゃくちゃ楽しかった。
正直人間関係は大変なこともあったけど、結局3年くらい、卒業するまで勤務し続けました。8時間のシフトも一瞬やった。
それは、毎日入れ替わる服をただひたすら眺めておけるし、いろんなブランドが知れるから。

この時点で自分の服好きは本物だって側から見たら気づくような気もするけど、当時は気づかず、せっかく勉強してきたからいい会社に入ろうって謎の根拠で就活し、
とはいえ働く場所や部署を勝手に決められる内資系企業は性格が合わなさすぎて、あと、よく言うと知的好奇心が高い、悪く言うと飽き性な私は、外資系コンサル1択で就活をし、するすると合格してしまいました。
(大学時代、勉強系の謎サークルもガチで取り組み会長とかしてたので、受かりやすかったかなと)

社会人スタート

で、外資コンサルはまあやっぱり激務。
会社の名誉のために言っておきますが、これは本当に部署によります。あと、構造的な問題です。最初は超ホワイト部署でした。なぜなら、クライアントが製薬会社だったから。
製薬会社って一個薬を開発できたら一生儲かるし、開発にかかる期間が10年とかが普通のスパンなので、中にいる人たちが穏やか。流れる時間軸が遅いです。で、金払いもいいから、必然的にホワイトプロジェクトが多いです。
ただ、大手ファームだったので、当然社内には国内大手アパレルを対象とした部署がありました。
プロジェクトの噂を聞くたびに、やりたくて仕方なくなりました。ちなみにコンサルの仕事は嫌いじゃなかったし多分向いてたんですが、またまた完璧主義と責任感を発揮し、だんだんと疲れを溜めるようになっていきました。(結局飄々として外圧に強く、というか鈍感で、それでいて合理的なことが好きな人が向いてるし残っていくと思う。自論です。)

アパレルを専門に扱う部署に異動届を出し、無事採用。(社内移動は社内で採用みたいなプロセスがありました)念願かなってやりたいプロジェクトに入れました。
そこで結局1年半プロジェクトに参加しましたが、3回くらいガチ病みした(笑)
好きなことやってるはずやのに。
だから気づきました。コンサルティングって仕事が、好きなことじゃないんだって。
「できてしまう」から勘違いしてました。
「できる」と「好き」は違うんだと。
好き&できる、ことに自分の時間を投下した方が幸せだと。
実際、給料はめっちゃ良かったのですが、(同年代の誰にも負けないレベル)お金では幸せになれないことにも気づきました。
ボーナスが出るたび、日頃の仕事のストレス発散も兼ねてずっと憧れだったStella Mccartneyの厚底ローファーやMargielaの足袋ブーツを買いました。

でも、それで日々幸せか?というとそうではない。
いや、Stella MccartneyのローファーもMargielaの足袋ブーツも、履くたび自信を与えてくれるし、今でも買ってよかったと思っているし、自己投資的な買い物で満足しているが、それと日々の幸せは別問題であり、
自分はそういう買い物をするために身を粉にして働くのか?それだけの対価か?と言われるとそれこそ別問題というか。
結局お金じゃないってところに自分は行きつきました。


メンタルブレイクから自己分析開始

3度目のメンタルブレイクが来た時に、もう立ち上がる気力が残っておらず、辞めることに舵が向いていきました。
ちなみにさっき、構造的な問題があるって言いましたが、アパレル会社はやっぱりそんなに余裕資金を持ってないし、持っててもあまりコンサルには払いません。そもそも利益率低いですから。予算どりも厳しいです。そんな会社からコンサルプロジェクトを受注しようとすると、必然的にプロジェクトの単位が細切れになります。つまり、3ヶ月ごとに数百万円の受注になる。
これって、その分契約の提案数も増えますし、その分タダ働きが増える(営業行為はタダ働きなので)。てなわけで、一人当たりの労働量が増えます。
薄利多売に近いモデルになる。
この時期私は毎日13時間労働がデフォルトでした。(保身のために出退勤ちゃんとつけてたので正確です)さらに繁忙期は土日も働いてました。土曜日3時間、日曜日5〜7時間って感じ。

勘違いしてほしくない、というか自分として勘違いしたくないですが、
20代のうち、どこかのタイミングでがむしゃらに働く経験はすごい貴重だと思っています。絶対後で糧になりますから。ただ、しんどかった笑
プライベートなんてないですし、(頭は24/365仕事のことでいっぱい)たまたま当たったミスチルのライブに行って、絶対に感動すると思ってたのに、なんかその場に入り込めず、俯瞰している自分がおり、何も感じられず、これはやばいと思いました。
感受性のなくなった生活が、自分にとって一番辛いもので、失いたくないものでした。

さて、
転職を考えるために、自己分析を始めました。

この時の自己分析は自分にとってすごい重要でした。
また自己分析のおすすめ方法とかも書いていきたい。

で、出た結論が、私はコンサルティングは向いていないということ。

  • mbtiの結果が何度やってもenfp。全部感情的なタイプが出てる。元々合理的な人間ではない。ただ考えることが好き&仕事でさらに論理武装をしてしまっただけ。

  • コンサルとしてキャリアアップしていくと、マネージャーになる。マネージャーは、中間管理職として、いかにスタッフにハードワークさせ、いかに質の高いプロジェクトかという見せ方をし、品質コントロールし、プロジェクト受注する仕事。スタッフを駒として考えないと回らないが、それができる気がしない。できない限り、一生ハードワークから逃れられない。

  • コンサルとしての命題は、いかにクライアント企業を儲からせるか。資本主義経済で勝ち残りさせるか。ということに行き着くと遅ればせながら気づきましたが、そもそも資本主義経済があまり好きじゃない自分は、この命題に心を傾けられないだろう、常に違和感にぶつかるだろうということに気づきました。結構これがデカかったです。

注)全然書き終わらなかった。

ちょっと疲れたのでここで区切ります。笑
思ったより壮大な記録になりそうw
UAL合格に向けてやったことに端っこすら引っ掻かれずに終わった笑

こんなに長ったらしい文章を最後まで読んでくださったあなた、
あなたの時間を割いてくださってありがとうございます♡

2023年11月4日 テラスがあるカフェにて

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