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映画「ザ・メニュー」にチラ見えした、ガストロノミー界でオンナの居場所はどこか?問題

美食=「男のエゴを食べさせられている」問題


去年、グルメ界のセレブ女史が来日した。来店されたことが自慢になるような重鎮だったので、ご接待で有名レストランに引きまわされた。連れて行かれた店で、さぞかし鼻息を荒くした料理人達からドヤった料理責めにあったのだろう。やっとのこと落ち着ける環境に休むことができた時に、「男のエゴを食べさせられたわ」と打ち明けられ、深いため息をつかれたとの由。ご愁傷様でござります。

セレブ女史を苦しませた、ガストロノミー界=「男のエゴの世界」が、高解像度で見える化しておるのが、このミシュラン2024の選出シェフの写真ではないか。

まあザワつく一枚だ。
自分自身、高級レストランで女性シェフの料理を食べた体験はほとんどなく、また、それを不思議に思っていなかったということも、突きつけられた。ミシュランに選出される女性料理人は本当に日本にいないのか、その理由は、女性シェフが育たない環境なのか、いても評価されないということなのか。今後、男性シェフや厨房の環境などを取材する際は、ここんところを注意してみてゆきたい。

nomaのパロディー映画?「ザ・メニュー」

ところで、イノベーティブキュイジーヌの先鋭化で、それを創出するシェフがアーティスト、哲学家、社会思想化的な発言までするようになって、果てはカルト的な崇拝を受けてしまうようなヘンテコな流れが、美食の世界でおきている。

nomaはそんな現象と、たくさんのフォロワーを生んだレストランだが、そんな現象をパロディにしたようなグルメサスペンスが映画がある。「ザ・メニュー」だ。こういう映画がつくられたこと自体、意識高い・テンション高い・値段も高いイノベーティブ美食が、もうお笑いとホラーの「ネタ」に成り下がっていることの証明ではある。(nomaの功績をけなす意図はないが)

実際、2024年4月に開催されたnoma kyoto では、同じテーブルについたアメリカ人フーディー達も全員この映画を見ており、厨房から、映画と全く同じテンションで「イエス!シェフ!」という新兵いじめの悲鳴のような号令が聞こえてくるのを、「おい、お前ら死ぬなよー」と、笑いながらメシを喰った。むしろ、そのネタ込みで楽しむ飯であるとも思った。

イノベーティブレストラン神殿の、ピンセット儀式


映画のストーリーはこうだ。
離れ小島にある、孤高の天才シェフが営む、究極のレストラン。いうまでもなく意識高い、値段高い、予約のハードルも激高だ。
その島では有機野菜が育ち、肉の熟成小屋、発酵小屋があり、理想の食材が準備されている。
料理人たちは天才シェフに絶対服従するカルト教徒のようで、神聖な緊張感みなぎる厨房では、多くの料理人たちが、イノベーティブレストランのお約束、皿の上にピンセットで描く儀式みたいな「イノベ細工」に命がけで取り組んでいる。シェフからのご神託には「イエス、シェフ!」とマントラ大合唱だ。厨房が非日常なんだから、客席も普通じゃない。

ご本家・nomaのイノベ細工。蟻はピンセットで乗せたに違いない。でも、客にとっては「わー」てなもんで、出オチみたいなもんだ。
「イノベ細工」(ピンセット盛り)は、美食カルトの修行。昭和天皇は、皮付きの蒸し芋をお好みだったそうであるぞ。

予約至難のこの店にやってくるのは、金持ち、芸能人、チンピラ、評論家、そしてイカれたフーディー。彼らはこの店に「話のネタ喰い」「ステイタス喰い」「評論家喰い」に来ているだけで、実のところ、誰も料理なんか味わっていない。見ていてウザさのあまり殺意すら感じるが、実はシェフも同感であった。そのシェフの「殺意」が、「必殺仕置き人料理大会」として特別ディナーコースに仕立てられる、その顛末が、この映画のストーリーだ。
「アレ、キュイジーン!」

マーゴ(手前)はエスコートサービスの女性で、偶然にも彼女はこの日来店した富豪の「サービス」も担当していた、テーブル間の雰囲気は最悪になる。

天才シェフによる、傲慢な客たちへの復讐劇と見ると、パロディ風味のサスペンス映画なのだが、この作品、ちょっと面白い後味がある。話を「美食界の男たちの死屍累々エゴバトル」におわらせず、ガストロノミー界にいる女性たちのシルエットを(類型化してではあるが)描き出すからだ。

「究極のレストラン」の、最後の晩餐にいたオンナたち

登場する女性を紹介しよう。
まず、島のレストランに着いた客を案内するアジア系女性。これは欧米の高級レストラン「あるある」だ。アジア人女性がサービススタッフとして登用されることが多いのは、有能なばかりでなく、白人客にとって空気のような存在だから(オスカー授賞式で無視されたアジア人女優を思い出そう)だ。

次に、富豪の妻、イケてない俳優と愛人関係にある芸能人の女性。彼女らは、特権階級の男のパートナーとして高級料理店の席につくオンナたちだ。
「同伴」である。

そして、女性レストラン評論家。彼女は、男性編集者を従えてテーブルについている。男女の役割が逆転しているだけのようにも見えるが、メディア界には「辛口コメント」を放つ女性評論家に一定数の需要がある。この評論家女史には、酷評したレストランを閉店に追い込むくらいの影響力があるようだ。逆に、それくらいエグくないと「女性辛口評論家」は務まらない。

そして映画の中心になるのが、この店を神殿のようにあがめるフーディー男子と同伴してきた女性マーゴ(アニャ・テイラー=ジョイ)。彼女はエスコートサービスの女性で、カノジョのいないフーディー君のパートナー役として雇われている。つまりマーゴは唯一、「この店の客じゃない」。金持ちやフーディーがありがたがる「究極の美食」の価値を共有せず「ふざけんな」と、シラッとディスれる。フツーの観客の本音を代弁するキャラクターだ。しかも男のエゴに奉仕する仕事をしているがゆえに、男のエゴが充満したこのレストランの高慢さが我慢ならない。

厨房にも女性がいる。女性料理人だ。長らくシェフからセクハラ、パワハラを受けながらも、限界までがんばってきた。この「必殺仕置き人料理大会」の献立を考えたのは、実は彼女だったと明かされる。このディナーはシェフにとっては客への復讐、彼女にとってはシェフへの復讐として計画された。

優雅に始まった食事は、やがて流血、死、暴力が積み重なる、破滅的な展開になる。島から逃げようとする男性客を、シェフは「味変いじめ」「追いいじめ」でいたぶりつくす。シェフは客たちに「敗北のしょっぱさ」「無力であることの苦さ」を舐めさせている。

「もしガストロノミーが男のエゴの世界でなかったら?」を考えさせる彼女たちの会話

あがく男性と対照的なのが、女性たちだ。
もう逃げられないと観念して一つのテーブルで静かに語り合う。その中には、厨房での辛い経験から、心底絶望している女性料理人がいる。辛口評論家女史が彼女のつくったスープを口に運んで「この料理、あなたがつくったの?おいしいわ」と称賛する。それを聞いた女性料理人が「それをもっと早く聞いていたら‥‥」と涙ぐむ。
この至高のキッチンは、これまでの彼女の献身と努力に対して、そんな小さな評価すら与えらなかったのだろう。それが彼女を仕置人になるまで追い詰めたのだ。女史の「おいしい」という飾り気のない言葉も心に染みる。これは「辛口批評家」という業界での役割を降りて、心から食べ物を味わって、正直に発した賞賛にちがいない。「おいしい」なんて“素人くさい”表現は、評論家は書いてはならないことになっている。

料理界が、エゴやハラスメントが渦巻く世界でなければ、「彼女たち」は料理を復讐の手段にすることも、食べ手や料理人、フーディーたちを辛口批評で攻撃することもなかった。この短いシーンは、映画の中では話の箸休め的に置かれたものに過ぎないが、ガストロノミーの世界で箸休め的な場所しか得ていない女性たちを描写した、とても貴重な場面として記憶に残った。

男のフーディー、女のフーディー

「厨房のジェンダーバランスはともかく、食べ手をみれば、女性フーディーも男性フーディーと互角に発信をしているではないか」というご意見もあろうが、実は、男女フーディーそれぞれの目線や関心領域は、きっちりとジェンダーに応じた異なりかたをしている、という研究が、こちらの1冊。
重量級だが、なぜ味覚の世界がいつまでも(視覚、聴覚よりも)下位にあるのか、その下位の仕事にもっぱら携わってきたのが女性だったから、という論考は、なるほどコンフォートな味わい。
美食の世界の歪みの土台を知る上でも面白い。

「フーディー グルメフードスケープにおける民主主義と卓越化」(青弓社)











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