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誰の役にも立てなくて、ごめんなさい

自作詩(東方Project二次創作)

 長雨/多々良小傘

解説:

 一つ目あるいは一つ足の怪物は世界中の怪物奇譚において例がある。たとえばギリシア神話の巨人キュプロークス(サイクロプス)は単眼であり、鍛冶技術を持つことでも知られている。日本においても鍛冶技術と単眼・一つ足を併せ持つ例が数多くあり、例として日本神話の天目一箇神《あめのまひとつのかみ》、妖怪である一本だたらがある。天目一箇神は製鉄・鍛冶の神であり、一本だたらに関しては5、6世紀から近代に至るまで日本の製鉄のほぼすべてを担っていた製法「たたら製鉄」が名称の由来にあるという説がある。
 製鉄と一つ目・一つ足に物語上での関連性が数多みられる理由として、工業化する前の製鉄方法は、長時間輝く炉を片目で見つめときには火の粉を浴びる仕事であったことから、製鉄の技術者は年を経るごとに片目が見えなくなっていくことが挙げられている。また、日本においてメジャーであったたたら製鉄は、鞴を片足で長時間踏み続け、長い間風を炉に送り続ける必要がある重労働であったことから、片足だけが異様に発達し、もう一方がうまく動かなくなる職人もいたようだ。このことから、隻腕・片足という属性と製鉄には、近代まである程度の関連性があったとみられる。


(OverWatch2というFPSゲームのスナイパー『アナ』のゲーム内台詞に、Call me cyclops again, and see what happens(もう一度キュプロークスと呼んでみろ、どうなっても知らんぞ)というラインがある。アナはホルスの目と呼ばれる尋常ではない視力を持った世界屈指のスナイパーという設定だが、ある戦場における一瞬の油断により相手スナイパーからその目を撃ち抜かれ隻眼となった。以後は前線を退き、かつての視力はないまでも、その射撃の腕を用いて、陰ながら世界平和を守るヒーローとなっている。このラインは、同業者によって隻眼にさせられた屈辱と、それを侮辱するような言葉遣いは容赦しない、という彼女の誇りを示すようなものとなっている。さながら、『空の境界』に登場する蒼崎燈子が、かつての学友に「(蒼崎燈子に)言ってはいけない言葉」を言われ、「その言葉を言った者は例外なくブチ殺している」と彼を破滅に追いやる場面のようである)


 東方Projectに登場する多々良小傘《たたらこがさ》は唐笠お化けの妖怪である。一つ目・一つ足の茄子色の大きな傘を両手で支えた、オッドアイの少女の風貌をしている。その本分は人を脅かすことであるが、古典的な妖怪であるためか人間はあまり怖がってくれないようで、どうすれば人を脅かすことができるかを懸命に考えている様子。しかし、人を襲ったり取って食うことはなく、また人里の子供をあやすベビーシッターのような役割を買って出ることから、人間友好度は非常に高い。

 一方で、作品中での彼女の由来はやや複雑だ。彼女は付喪神(道具が長年形を保っていると魂が宿る)であり、元々は両手に携えた一本の茄子色の傘だったものが、色合いによるものか人間の手に取られることなく、雨風を凌ぐでなく雨風に打たれ漂流し続けた結果、今日の多々良小傘に至る。
 道具として生まれたのに、人間に使ってもらえなかったという運命は、ある種の怨みを抱いてもおかしくない境遇だ。しかし今日の彼女はいまだに、どうすれば驚いてもらえるか、どうすれば役に立てるか、という人間本位の奉仕に尽くしており、健気という他ない性分を持っている。

 また「多々良」という苗字の他にも、製鉄技術を持った妖怪という一面も東方Project作品中で語られていることから、まさしく「一本だたら」「たたら製鉄」と所縁のある妖怪と言える。初志貫徹して「たたら」の字にまつわる要素を兼ね備えた、しかし心優しい妖怪と言えるかもしれない。


 俺がたたら製鉄や多々良小傘の話を見聞きして思うのは、道具というのはある程度、作り手の人生を犠牲にして出来上がっているものだよな、ということだ。「犠牲」と呼ぶほどに捨てている自覚のある人ばかりではないかとも思うし、何もかもに「犠牲」を見出してしまったらそれはそれで詮無いとも思うが、ただ、少なくとも俺は、誰かの仕事の成果を享受するということは、その人の時間や人生をいただいている行為であるという前提は大事にしたいと思う。

 製鉄でいえば、その人が単にその作業へ捧げる時間だけでも犠牲だし、加えてその人の視力や脚力を酷使して他のことに使えないほどにまで追い詰めてしまう、というのは、間違いなく犠牲だと思う。美しいものを見るための視力も、身体をどこか知らない場所へと運ぶための脚力も、何か他のことができたはずの時間も、その仕事のために捧げている。それは、得られるはずだったものを捨ててまでも、その仕事に奉仕する姿勢だ。
 そしてもし、そんな作り手の様子を、作られた側の道具が知っているのだとしたら、彼をある程度尊んでもおかしくないことだと思う。さらに、そんな作り手の存在を知っている道具が、自分をぞんざいに扱う使い手や、誰にも見向きされない状況に立ち会ったとき、それはもう、世界を呪うような哀しみに包まれても、おかしくないだろう、と思う。

 あらゆる仕事に「犠牲」を見出すのは、すなわち「報い」や「見返り」を求めてしまう行為だとも思う。さながら、理想的とされる「無償の愛」とは逆の「有償の愛」だ。愛してるという言葉を、相手からも愛してほしいという脅迫に使ってしまう。そういう性分が、報いを求める性分であり、ともすれば歪んだ愛情とも捉えられるだろう。
 だがほとんどの人間にとって、自分を犠牲にしたとき、自分の命を秤にかけたとき、または自分が心から大切と思う人が払った犠牲を想うとき……それに見合った何かが得られてほしいと願ってしまうのは、おかしいことではないんじゃないか。

「あのなあ、ミカサ…誰しもお前みたいになあ、エレンのために無償で死ねるわけじゃないんだぜ
 知っておくべきだ 俺達は、なんのために命を使うのかを
 じゃねえと、いざという時に迷っちまうよ
 俺達はエレンに、見返りを求めてる
 きっちり値踏みさせてくれよ 自分の命に…見合うのかをな」

進撃の巨人 - アニメ16話

 然るに、あらゆる道具や仕事に対して、俺はなるべく敬意や誠意というものを持っていたい。それはたぶん、自分が何かを犠牲にして仕事をしたときに、相手からもそういう評価をしてもらいたいという、いわば「有償の愛」「報いをもとめる態度」だ。それは歪んでいるかもしれないが、俺は何度考えても、何度様々をやり直しても、何度創作という世界に立ち戻っても、やっぱり、報いを求めてしまう。経験上、報いを100%求めないやり方は、遅かれ早かれ停滞を招く。報われたいという呪われた希求が、結局、俺をどこかへ連れて行くために必要な焦燥であり、呪縛なのだと思う。
 だが一方で、あらゆる道具や仕事に対して、いつも敬意や誠意を持っていられるわけではない自分のことも知っている。人からもらったもの、いつか使うだろうと買ったもの、それは埃を被りタンスの体積を狭くしてしまうだけで、結局はロクに使わず棄ててしまうことがある。その棄てるとき、まったく使わなかったモノと、ずっと使い続けたモノとでは、俺の中でうまれる感慨に段違いの差が生まれている。
 どちらのモノも道具であり、誰かの仕事の果てにできたものであるのは変わらない。それでも、自分の中の思い入れはどうしても存在して、その思い入れによって待遇に差ができるのも、紛れもない現実だった。

 モノを捨てるとき、俺がそのモノに対してかける言葉や取り扱い方は、明らかに差異があった。すぐに使わなくなったものは鼻歌でも口遊みながらゴミ袋へ詰めていく。かつてずっと使っていたがもう何年も触っていないものには何か気まずいような気持ちを抱きながらその表面を撫でた。擦り切れるまで使い潰して大事な思い出の場所へと一緒に何度も行ったものには、最大限の感謝と、願わくばまた来世で、という言葉をかけて何度か胸に抱いた。モノに対してさえこういう態度なのだから、差別をしたりされたと感じる場面は決して無くならないだろうと思えた。  


 だからせめて俺は、この詩に、使い続けられなかったものたちへの弔いと謝罪を込めようと思った。彼ら一人ひとりに触れたとき、同じ態度でいられない自分に情けなさを憶えながら、それでも詩歌の中では統一した態度でいよう、と思った。
 必要がない道具は使われない。たとえその製作の過程に、どんな血塗れた犠牲があったとしても、必要が生まれないことには、道具は長雨や日照りに流されていく。使おうとさえされなかったことへの哀しみと怨みを、俺も知っているよ、おまえたちと一緒だよ、と言うことで、俺は救われようとしているのかもしれない。それは歪んでいるかもしれない。でも、どうせ既に、いくつもの道具を愛着のないまま葬ってしまった過去を想えば、もはやこの歪みをそのまま伝えずにはいられなかった。

 もし、俺が愛着なしに葬った道具たちが、多々良小傘のように、純粋無垢で、怨みとも無縁の生き方をしていたとしたら、それはきっとありがたいことだし、同時に、これ以上ない俺への当てつけだと思う。それは、どれだけ作品をつくっても、世の中から置き去りにされる俺という構図を、俺が捨てた道具たちは辿っていない、ということだ。つまりは俺は孤独であり、使われないことに対する虚しさを、一人で背負うしかなくなる。そうなった途端、俺の中にある報いや有償の愛という概念は、俺の中にしか存在しない、ただ孤独な、共有の余地のない、一人の地獄になる。
 そうはなりたくないと心から思いつつも、そうなっても仕方ないよな、とも思う。薄情な人間の受ける罰として、最大のものだろう。

 だけど俺は、きっとこの痛みは、俺だけのものじゃないよな、とも思うし、願ってしまうのだ。使い続けられなかったものに、ごめんねと泣きじゃくる子供と、ごめんねと言うべきときに言えなかった青年が、いまもずっと、俺の心象の中にいて、それはきっと、俺だけが見る光景じゃないと信じている。




くたびれたあたしが駄目だったんだね
頼られていると思い込んでいるよ
ちぎれる前の新品未使用のあたしに勝てやしない
くたびれたあたしが駄目だったんだね
色褪せただけ思い出していけるよ
ちぎれた後に少しだけ名残惜しそうにさようなら