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身を滅ぼしてでも書きたい、読まれたい

 流行り病(コで始まるあれ)に感染して、一週間余りが経つ。二年ぶり二度目の陽性反応。前回と比べ発熱はかなり控えめだったものの、未だに痰の絡む咳と鼻水が止まらず、耳もよく聴こえない、頭も常に痛い。坂を上がると呼吸が苦しくてしばらく喋りたくないし、呼吸器関係がかなりやられているのを感じる。そんな中、普通に職場復帰して12時間は労働をしているのだから、まあ、しんどい。しかも、noteにおいて毎日投稿を行っていて、さらに詩の毎日製作、他人の記事と作品を毎日かならず一つ以上読む、二か月後に出す同人誌のデザイン作業(内容は文章だが、表紙絵を描いてる、本の内装も目次も表紙も帯も全部やってる)、四か月後に出す予定の長編小説、とまあ、ちょっとかなり、今までの自分からすると信じられないくらいのタスクを抱えていて、控えめに言って死にそうだ。その作業を始めようと思い立ったのは、流行り病に感染した当日である。誰に言われるでもなく、俺自身がそれを始めたのだ。職場の労働時間は不可抗力だが、予測のできる範疇ではあった。俺は馬鹿なのか、という悪態を何度もつきながら、ここ数日、ずっとその作業をこなしてきた。

 とはいえ、病にかかり体調が本調子でないと、気も滅入ってくる。考えを妨げる頭痛、意識を飛ばしてくる咳と鼻水、少し動いただけで息を荒げる体、それらと付き合いながら仕事や創作をしていると、「しんどいからもういいでしょう……」「こんなに体調が悪いなら仕方ないだろ……」という妥協や暇乞いが、思わず口から漏れ出る。他人に対しても、そういう態度が出てしまいそうになる。創作についても、そういう甘えた態度が出そうになる。ちょっと文章を推敲するのをサボって、違和感のある文章の接続を埋めるのをサボって、自分の文章の足りなさをいい加減な引用で濁そうとして、そうして、やるべきことをやらずに出来上がった作品や記事が積み上がる。実際にはそうではなく、十分にすべきことを達しているものなのかもしれないが、悪態をつきながら作業をしている俺の心はいつも、そういう後ろめたさに突き刺されていた。いいや、今もそうなのだ。この微妙な体調が、甘えた態度が、自分の書くものを必要以上に矮小へと留めていないか。そういう言葉の重みが、虚ろではなく、肌感覚で伸し掛かってくる。

 言い訳をしたくない。『画家になるということは、ゴッホやピカソといった著名な画家の作品と同じ壁に、自分の作品を並べることだ』という言葉がある。俺の何千倍もビュー数や反応を得られている、あるいは俺の記事よりもあまりに示唆や根拠、面白さに富んだ、優れたnote記事。俺はnoteに記事を出している時点で、これら作品と同じ土俵で評価をされてもおかしくない。いいや、今の俺は、アマチュアで、無償で、何の責任もなく書いているだけであって、プロとしてやっている人間の背負う期待の、足元にも及ばないのだろう。けれど俺は、いいやもう明確にしよう、俺はプロとしてやっていきたいんだよ。それは、自分の創作物について、同人だからとか、非営利だからとか、二次創作だからとか、そういう目で見られて、(プロの作品ならともかく、ただの一般人だしな)という感想で、本気に捉えられないのが嫌だ。くだらない作品ならそうだと言ってほしいし、クソみたいなものならそうだと言ってほしい。オープンに言いづらいならXのDMでもいい。発行した本の小説は、巻頭に感想を送れるフォームのQRコードを掲載している。もう、遠慮なく言ってほしい。一笑に付さなくても、まったく刺さらなくても、そうであることを言ってほしい。もし万が一、これはいいなと思ったとして、その感慨をうまく言葉にできないなら「よかった」だけでもいい。言葉にうまくまとまらなくて、論理立てた話ができなくても、そのまま想いをぶつけてほしい。そう思うのは、たぶん、これ以上なく我儘だ。でも、本当にそう思ってやまないんだよ。

 俺は、これこそはと思える、素晴らしい作品の数々に会ってきた。音楽、絵、漫画、文章、映像、詩。なりふり構わずそれらの魅力を語ることもできる。現にこれまでのnoteでやってきた。俺には、崇敬する、感嘆する、感慨に溢れた、あまたの素晴らしい作品と出逢ってきた記憶があって、そして、その作品に、たった一縷、ほんの指先のひとつだとしても、迫るものを書きたいと希求してやまない心がある。そして、それら珠玉の作品に迫るには、おれは自分の中にあるこだわりとか、思い込みとか、情けなさみたいなものを、無視するでなく、焼き払うでなく、直視して、しかしそのうえで、創作に本気で立ち向かわないといけない。全部を擲ったとして、それら作品に迫れるというのなら、俺は持っているものをいくらか擲ったって構わない。
 睡眠時間を削っていいものが作れるならそうする。友人関係を蔑ろにしていいものが作れるならそうする。でも、現実にはそうならないことがままある。だけど、それら創作行為ではないものの快さに時間を奪われすぎると、作品を切り詰めるだけの時間は失われていく。俺は、そういう油断とか「これくらいでいいや」という半端さを、自分の作品に残したくないんだよ。そんなの、俺がこれまで見てきたものに対して、それらと同じ壁に並ぼうとするという不遜な態度に対して、それでもなお読んでもらい感想がほしいと希求する本心に対して、申し訳が立たないだろ。

 早く寝たい、体調をなんとかしたい、という希求をよそに、俺は結局、こんな記事を22時台に一時間もかけて書いてしまうのだ。それが終わったら、飯と風呂を手早く済ませて、まだ製作と読書を続けようとする。それをしてしまう理由は、ここまでに書いた通りだ。
 これまで見てきた珠玉の作品に肉薄するものを書くためなら、それを読んで感慨を抱いてもらうためなら、もう、なんだってします。なんだってしますから、頼むから、俺を見つけてください。俺を育ててください。俺の想いを救ってください。


自著を出品する回数も増え、
もはやこの景色も特別なものではなくなってきた。
それでも、本を出し、読んでもらい、
声をかけてもらうその瞬間は、
どんなに経験しても特別さを失わない。
こんなに情けない人間が作ったものが、
読まれ、購入され、感想をもらえるなんて、
奇跡という他にないだろ、と、何度やっても思う。
その奇跡に立ち会うためなら、
何もかも擲ってしまう。