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子ども型ラブドール規制論と小児性愛者差別にみられるおかしな主張9類型

ラブドールへの強烈な不快感情が、ラブドール規制および小児性愛者の社会的排除に向かい、無理やりにでも正当化の理屈をつくりあげることについて前の記事で説明した。

差別を考えるのが苦手なぼくでもわかるひどさ

こういった主張をTwitter上ですると、自分のTLであるから、圧倒的に賛同のリプライなり引用RTなりが多いものの、それでも様々な反論がやってくる。一応、対応できる範囲で説明はしてみるものの、多くの場合は理解はされないようだ。

「なんでめんたねさんはそんなに小児性愛者に肩入れするんですか?」

こんな風に聞かれたりもする。なぜって、それは犯罪行為を行っていない小児性愛者に対しても理不尽に彼らの人権を侵害していいという言説が飛び交っているからだ。あからさまな差別である。「そりゃさすがにダメだろ」と突っ込みたい気持ちが抑えられない。別に小児性愛者自体に特別に肩入れしているわけではない。

そもそもぼくは差別問題にはあまり踏み込まない方である。差別とは何か?というのはなかなか難しい。差別という正義を振りかざして、相手を一刀両断に断罪できるほどの確信を持てることは滅多にないのだ。差別はぼくにとってかなりの苦手科目なのである。

それにもかかわらず、小児性愛者の件に関しては「あなたたち、それはいくらなんでも差別がすぎるというものではないですか?」と言わずにはいられない気持ちにさせられる。今回に限らず、過去にも何度か同じことを言ってきた。そのぐらい、露骨にひどいものが横行している。前の記事で解説した通り、あまりにも理不尽な差別的発言をするたちの根底には強烈なネガティブ感情がある。恐怖、不安、嫌悪、怒り……そのような感情の暴走が理性を捻じ曲げているのだろうとぼくは見ている。

「小児性愛」は発狂ワード

おそらく「小児性愛」というのは、一部の人にとって発狂ワードだ。このワードが出てくると、感情が爆発し、日頃している普通の判断が一切できなくなる人が出る。おかしくなってしまう。

でも、これをそのままやり過ごすのは、さすがに社会的にまずいだろうと思っている。だから「あなたたち、だいぶおかしくなってるよ」とは言っておく。彼らにそう言ってはいるが、彼らがわかってくれる可能性は限りなく低い。わかるとしたら、感情が落ち着いた後だ。今じゃない。

じゃあ、なんで言うの?という話になる。それは、形式上は彼らに対して話をしているが、実はそのやりとりを見ている周りの人に向けて話しているからだ。

周りで見ている人の中には、おかしくなってない人がたくさんいる。

だが、周りで見ている人も気を付けないと、おかしな人のおかしな迫力に押されて、おかしな世界に巻き込まれてしまう。おかしな人のパワー、熱量はすごい。

だから、「あの人たちはここがこんな風におかしい」と示すことを目的としておかしな人たちとやりとりをする。そうすれば、周りで見ている人はかなりの確率で理解してくれる。ぼくはこの小児性愛者に対する激しい差別に関しては、そのためにツイートをしているし、noteを書いている。

そういうわけで、これから、今回のラブドール祭りでよく見かけたおかしな主張の9類型を解説していきたい。彼らのおかしさをわかっておけば、熱量に押し切られておかしな世界へと迷い込むことはないであろう。

1.小児性愛者と児童虐待者(性犯罪者)の区別がついていない

小児性愛者(ペドフィリア)とは、性愛の対象が小児に向かう者を指す。日本においては13歳未満の児童との性行為は犯罪行為とされており、彼らが実際の子どもたちを相手に性欲を充足しようとすれば、犯罪行為となる。

児童虐待者(チャイルド・マレスター)とは、実際に児童への暴力、性暴力を行うものを指す。

図にすると以下の通りだ。

ペドフィリアとチャイルドマレスター

小児性愛者(ペドフィリア)には①と③の二種類がいる。一つは、①「児童虐待を行わない小児性愛者」である。こちらが小児性愛者の大多数となる。そして、もう一つが③「児童虐待を行う小児性愛者」であり、こちらはごく一部の少数である。

実は、児童虐待者の大半は小児性愛者ではなく、児童虐待者全体のうち小児性愛傾向があるのは3割程だとも言われている。残りの7割は小児性愛者ではない児童虐待者ということになる。

小児性愛者排除論を唱える人の中には、そもそも両者を区分する発想がなかったり、小児性愛者の全て、もしくは、かなりの多くが児童虐待者になりうると誤解しているケースがよくある。

実際に小児性愛者のうちで児童虐待・児童性犯罪を実行する者はごく少数である。

2.子ども型ラブドールがそれを愛好する者を児童への性犯罪者へと変化させるトリガーになると信じている人

子ども型ラブドールを規制する根拠として「子ども型ラブドールの使用が、実際の子どもに対する性犯罪行為を実行するトリガーとなる」そう述べるものが多い。だが、今のところ、それを十分に示す根拠はない。

それをこちらから伝えると、今度は「トリガーとなる根拠もないかもしれないけど、トリガーとならない根拠もない。あるなら見せろ。なければ、どちらかわからないのだから規制してもよい」と言い始める。

だが、それはおかしい。本来、自己に有利な効果を発生させることを主張している者が原則として証明責任を負う。今回であれば、ラブドール規制を申し立てている側がその根拠を証明すべきだ。

一つ、例を考えてみよう。「めんたねは殺人者である」とぼくを糾弾する者が現れた。その場合、普通、その糾弾者の側がぼくを殺人者であると証明する責任を負うのはわかるであろう。ぼくは自らが殺人者ではないことを証明する責任は負わない。そうしないと根拠のない不毛な訴えが多発し、訴えられた側のコストが跳ね上がってしまう。

殺人者の例であれば、おかしくなっている人たちもわかるのであろうが、ラブドールに関しては、急にわからなくなるようだ。

何らかの理由を持ち出して、自分たちには証明責任はない特例にあたり、小児性愛者サイドが「絶対にトリガーにはならない」という証明をしない限りは、規制すべきだと主張する。

3.子ども型ラブドールの存在を許容することは、社会が児童への性的虐待を肯定する姿勢を示したことになると思っている

子ども型ラブドールを使用すること自体は、人形を使ったオナニーに過ぎない。その様子をわざわざ児童に見せつけるなどしない限りは、児童への性的虐待ではない。

だが、ラブドール規制派はその子ども型ラブドールに実在の子どもを投影した形で受け止める。そのため、子ども型ラブドールの使用に実際の児童への性的虐待がメタファーとして表現されていると考える。そのうえで、児童への性的虐待のメタファー表現を許容するということは、実際の児童への性的虐待をも許容すると考えるのであろう。

個人的に勝手にそう思うのは自由なのだが、そんなことを根拠にしてラブドール愛好家の人権を制限できると思われると困る。

二つの点から否定することができよう。

第一に、ラブドール規制派のメタファー解釈が必ずしもラブドール使用者の実際の意図とかみ合っていない。

子ども型ラブドールの使用を児童への性的虐待のメタファーと取るためには、その前提として、子ども型ラブドールを実際の子どものメタファーと解釈する必要がある。

一方、ラブドール所持者の視点から眺めてみよう。ラブドールは高品質なものほど高額になり、50万円を超えるようになっていく。そのようなドールを所有する者の多くは、そのドールに愛着を持ち、大事に管理しながら家族の一員、かけがえのないパートナーとして過ごす。

彼らは必ずしも、そのドールを人間のメタファーとして捉えているとは限らない。以下のブログ記事はその点について大変に参考になる。

私は人形にしか性的興奮を覚えない人形性愛者である。
無機物で作られ、有機的な肉体よりも完璧に編み上げられた造形を持つ人形しか、私は愛することができない。

ここでは人間の代替物として人形を愛しているのではなく、人形だからこそ愛しているということがはっきりと示されている。全てのドール所持者が同じように考えているわけではないだろう。ただ、少なくとも人形を人間の代替物、メタファーとは考えていない人間がここにいる。

私が身長130cm台のドールを選んだ理由もここにある。小さければ軽く、移動させることも容易だ。

ただ前述のように100cmほどの小型サイズで成人女性の体型をしているラブドールもいる。小児性愛者でないのなら、持ち運びが容易というだけならそちらを選べば良いのではないか?と疑問に思う方もいるかもしれない。

けれども、私は人形性愛者なのだ。人形は人間に近く作られているほど精巧だ。限りなく人間に近く作られていればこそ、人間にはない造形美が際立つのである。だからこそ、「実物の人間に近い」と「取り回しができる」の折衷として、130cmのドールを迎えることにした。

身長130cm台のドールを選んだ根拠もここに述べられている。ドールの重さなど実際の取り回しの問題と、実物の人間になるべく近づけることの狭間で成人女性体形ではないボディを選んだと思われる。見た目が児童に近いことは身長にあわせた自然さの表現であろう。そして、なによりもこれは人間ではなく、人間を超えた造形美を持つ人形なのだ。人形を愛している。人形に大人も子どももないのかもしれない。

このように、ラブドールを児童虐待のメタファーと解釈するドール規制派と、実際のドール所持者が人形に見出す意味合いは異なっている。

両者が食い違っているとき、なぜ所持者自身ではないドール規制派のメタファー解釈のみを正当なものとして優先的に採用できるのであろうか?きわめて恣意的な判断である。それを正当かつ唯一の解釈とすべき根拠が見当たらない。

第二に、こちらの方がより強力な反論となると思うが、ドール規制派によるメタファー解釈をドール所持者が受け入れたとして、それでもなお、社会が児童への性的虐待を肯定する姿勢を示したことになるとは限らない。

普通に考えてみて、ドールはドール。人形であって人ではない。人形の世界の中でフィクションとして表現されたことを許容することと、それを現実社会で許容することは全く違う。

もし、「フィクションの中で表現されることを許容したことは、現実世界での実行も許容したことになる」というロジックを採用するのであれば、世の中のすべての殺人にまつわるコンテンツは抹殺しないといけない。そういったものの存在は殺人を肯定する姿勢を示したことになるのだから。

そこでよく使われる論法として、「作品内で悪が描かれたとしても、それを肯定的には受け止めていない文脈がしめされているからよい」というものが見受けられる。それにしても、そうではない全てのピカレスク小説のようなものを社会の悪を許容する許されざる作品と考えるというのであろうか?現実的ではないだろう。

フィクションはフィクション、現実は現実である。子ども型ラブドールの使用に関してだけ、恣意的に児童への性暴力と解釈した上で、それを現実社会に対する許容と理解するのは無理がある。

ドール規制派に、無理やりそのように解釈してでも子ども型ラブドールの使用を禁止したい強い思いがあることはわかるが。

4.子ども型ラブドールの存在を許容することは、社会が小児性愛者の存在を肯定する姿勢を示したことになると思っている

犯罪を犯さない小児性愛者は普通にその存在を肯定されるべきだ。拒絶され、排除されるべきまっとうな理由がない。彼らは何も罪を犯していない。そんな人間の人権を一方的に制限するのはおかしい。

多くの場合は、1で説明した「小児性愛者と性犯罪者の混同」を併発している。

「小児性愛者と性犯罪者の混同などしていない!純粋にキモいし、人として異常な姿だ。たとえ犯罪を犯していなくても小児性愛者を社会が肯定する態度は決して見せてはならない」こういうストロングスタイルは一般に「筋金入りの差別主義者」と呼ばれる。

5.集団内の一部の変質者を抹殺するために、集団全体を根絶やしにしてもいいと思う

「確かに小児性愛者の中には犯罪を犯さない者もいるかもしれない。だが、犯罪を犯す者もいる。それも事実だ。それはあってはならない。だから、小児性愛者は許容できない」などと言うケースだ。

彼らはまったく同じ構造である「確かに人類の中には犯罪を犯さない者もいるかもしれない。だが、犯罪を犯す者もいる。だから、人類は許容できない」というロジックを許容する覚悟があるのだろうか?あるのであれば、まず、自らが実践してほしい。

ぼくは許容できないので残念ながら実践できない。危ない人がいなくなった世界で、平和に暮らしていきたいと思う。

6.「子どものため」であれば他のあらゆる犠牲は仕方がないと思う

子どもも大人も同じ人間である。子どものためであれば、そのメリットがどんなに些細なものであろうとも、大人の人権を容赦なく制限してよいか?そんなわけがない。

だが、「子どものため」と枕詞を付ければ、どんな横車でも押せると思っている人間は結構いる。

なお「子どものため」のバリエーションとして、「我が子の心配をする親の気持ちがわからんのか!」というのもある。心配なのはわかるが、個人の恐怖、不安だけを根拠にして、犯罪を犯していない人間の人権を制限するわけにはいかない。まあ、このモードに入ってしまった人に対しては、いくらそれを言ってもわからないことがほとんどだ。

7.小児性愛者は病気なので、必ず治療を受けなければならないと信じている

小児性愛者の人権を制限する理由として、「病気だから治療されるべきだ」という物言いが使われることも多い。

本当に小児性愛者のためを思って「治療されるべきだ」なんて言ってる人は滅多にいない。体よく社会から排除したいだけである。

少し賢しらな人は、米国精神医学会の診断・統計マニュアルDSM-5を持ち出し、「こんな風にペドフィリア(小児性愛)は病気とされている!勉強してからものを言え!」など言ってみたりする。

DSM-5がなんぼのもんじゃい!という話だ。

実際のところ、そこに何らかの真理が記載されているわけではない。編集方針も内容も改定のたびにコロコロ変わりながら、「とりあえず、今回はこんな感じでまとめとく?」ってな具合で一応の診断基準として暫定的に作られているだけのものだ。

それに百歩譲ってそのままDSM-5に乗っかってみようじゃないか。

規準A : 少なくとも6ヶ月間にわたり、思春期前の子どもまたは複数の子ども(通常10歳以下)との性行為に関する強烈な性的に興奮する空想、性的衝動、または行動が反復する。

規準B : これらの性的衝動を実行に移したことがある、またはその性的衝動や空想のために著しい苦痛、または対人関係上の困難を引き起こしている。

規準C : その人は少なくとも16歳で、基準Aに該当する子どもより少なくとも5歳は年長である。

DSM-5を持ち出した人間は、本当に規準Bを読んだのだろうか?

・性的衝動の実行
・性的衝動や空想による著しい苦痛、対人関係上の困難

このどちらかが必要だ。本人が医療にかかる必要を感じず、子どもに実際に手を出すわけでもないならば、小児性愛者にすら当たらないことになる。そんな彼らを病気扱いし、治療を義務付けるのは立派な人権侵害だ。

小児性愛の件でDSM-5を持ち出して過剰な医療化を主張する連中は、すべて文字の読めない愚かな権威主義者だと切り捨てていい。ぼくが許可する。(何の権限で?)まあ、そのぐらいダメな感じだ。

病気という概念はかなり社会的なものであり、社会の要請を受けて何を病気と見なすかは変わる。昔は同性愛も病気扱いであった。トランスジェンダーも「性同一性障害」という形で無理やり病気扱いしてきたが、最近はそれも限界がきて変えていこうという動きがある。

そういったことをふまえ、小児性愛をどんな条件において病気と見なすかをきちんと検討していく。これならよくわかる。

だが、雑に本人の意思などおかまいないしに「小児性愛は病気だから~」などと決めつけ、彼らに何かを押し付けたり、彼らから何かを奪ったりするのは何も考えていない証拠である。

8.小児性愛のように実行したら犯罪である性的嗜好は社会的に許容してはならないと考える

以下のようなことを言う人間がいる。

日本の性的同意年齢は13歳以上である。13歳未満の相手との性行為は全て犯罪となる。13歳未満の者がどう言おうが、同意があったとは認められない。

そして、それが犯罪となるのがわかっているから多くの小児性愛者は実行しない。

だが、そのような性的嗜好を持っている時点でたとえ実行せずとも社会から白い目で見られるようにすべきだという。

非犯罪者を社会的に差別し、排除する根拠としては、もしそうしなければ、

1.勘違いして実行する人間が出る
2.被害者をセカンドレイプする人間が増える

という2点が起こるからだという。

この点については、1も2も勘違いして実行する人間、セカンドレイプする人間が悪い。勘違いするバカはどこ世界にもいる。それは勘違いするバカが悪い。勘違いされる方は悪くない。

裁くべきは犯罪者であり、犯罪者から勘違いされるきっかけになったものではない。無実の存在を叩いてはいけない。

さらにこのように考えるものもいる。

「実行すると犯罪となるような性的嗜好を持っていること自体が犯罪に準ずるものなのだ。実行しなくても、そのような目で周りを眺め、そのような妄想を頭の中に思い描くこと自体が罪深い」

「実行すると犯罪となるような性的嗜好」などというのは、われわれはみな日常的にカジュアルに持つことがありうる。ある男性が、美しい成人女性を見てセックスしたいと一瞬でも感じた。この時点でアウトだ。彼は「実行すると犯罪となるような性的嗜好」を持ったことになる。なぜか?

まだその女性からセックスへの同意をもらっていない。同意をもらっていない時点でのセックスはレイプである。同意前にセックスしようとすれば、相手を傷つけるし犯罪行為にあたるから、多くの人間はいきなり行動に移さない。同意を取ってからセックスをする。

セックスに対する同意を先に取ってから、その相手への欲情を開始する。これは相当至難の業だ。みな、たいていは同意を取る前に欲情している。アウトだ。白い目で見ないといけない。お互いがお互いを白い目で見あう社会の完成だ。だが、なんのために?

こんな反論も引き続ききた。

なるほど。それは単なる定義の問題である。

同意前のセックスはレイプ。同意前にセックスを望めばレイプ願望。

そのように定義するのではないようだ。

「同意後にセックスしたい」と望む場合は「レイプ」ではなく「セックス」だ考えるということだろう。

それであれば、小児性愛者にもそれをあてはめることになる。

犯罪行為をしない小児性愛者は子どもとセックスしたいと望む。もちろん「同意後にセックスしたい」と望むわけだ。ただし13歳未満はルール上同意がとれない。だから、「同意後にセックスしたい」という望みは永久にかなわない。それだけのことだ。

これならば、小児性愛者の性的嗜好についても「実行すると犯罪となる性的嗜好」とは考えなくていいはずだ。犯罪を犯してまで実行しようとしていないのだから。

同意後にセックスを望むケースについて「セックス」「レイプ」どちらの願望と理解したとしても、成人への実行前の性欲は白眼視されずにすみ、児童への実行前の性欲は白眼視される根拠にはならない。

もしここで、ことさらに小児性愛者だけを「邪悪で」「たたくべきもの」として扱う人間は単なる差別主義者だ。

幸運なことにこの点については理解してもらえたようだ。こういう一瞬は本当にうれしい。

9.海外諸国が人権侵害をやっている場合、日本もそれに追随して人権を侵害していい

しばしば「今、世界ではセックスドールの規制がどんどん進んでいるんですよ!」なんて言う人も出てくる。

だが、もし仮に小児性愛者であれば彼らの人権を理不尽に侵害していいという方針で世界が動いているのであれば、それはやっぱり世界がおかしい。おかしいものはおかしいのだ。少なくともぼくにはそうとしか思えない。

「世界ではこうなってます!」型の非常によく見るパターンは下のリンク先noteで紹介されているBBCドキュメンタリーのリンクを貼る、というものだ。

この動画のリンクを貼って何かを説明した気持ちになっている人を見ると、この人たちは、外国人が泣けば、それが人権侵害を許容する根拠となりうると思っているのだろうか?と不思議な気分になる。

ぼくには海外任せのただの権威主義にしか見えない。

ある外国人が子ども型ラブドールを見て悲しくなって泣いた。それだけの話であって、その外国人の感情を根拠に人権侵害をして良いはずがなかろう。

以上、子ども型ラブドール規制論と小児性愛者差別にみられるおかしな主張9類型でした。他にも、「こういうタイプのおかしな発言が繰り返しよく見られるよ」というものがあったら、ぜひTwitterでもコメントでも何でも教えてください!

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【トークライブ】ラブドール 人ならぬものに人を見るとき
6/2(火)20時~
児童型ラブドール規制の動きが高まっている。なぜ人はラブドールに不快を感じるのか?人間が意思のないロボットを演じるロボデリの開発者とロボ女性をゲストに招き、人間と人形と欲情を語る。

ゲスト:あき(ロボデリ) サヨコ(ロボ)
スピーカー:めんたね(こうじ) 老師 阿南 りな
https://youtu.be/UIiIPN_lAFg

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