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戸田真琴『そっちにいかないで』 感想

戸田真琴さん著 『そっちにいかないで』を拝読しました。
1人のAV女優による、幼少の記憶からAVデビュー、引退に至るまでを主観で綴った私小説。
機能不全家庭で過ごす中でいつの間にか植え付けられた自罰的意識、その解放までのプロセスが主人公モモの視点を通して丁寧に語られます。

以下、本作の大筋を振り返りながらの自己解釈です。
※内容に深く触れますので、未読の方はご注意ください。


■第一章

母が作った、家庭内のキャラクター設定を根深く植え付けられた姉妹。主人公のモモは「わがままでマイペース」という設定により苦しまされる。

ゴミ拾いや学級でのいじめを止めようとするなどモモができる限りの善行により、それがなんの足しにもならないと知りつつ、それでも自身が生きることを許すためという自罰的な意識から「やさしい」ことをする。

しかしこの設定を作った母からすると、母にとって悪いことは「わがままでマイペースなモモ」自身のせいにされ、良いことは母が信仰している宗教の御本尊様、『ゴン様』のおかげに変換される。
モモが「わがままでマイペース」であること、その罪が許されることはない。

姉の自傷行為はモモが背負わされた罪による苦痛と同質のものに見えるが、それに対してモモは本質的に何もしてあげられない。自身の苦痛は自分で何とかするしかない、ということは知りつつ、何をしても救われることがないことにもモモは気付いている。

イマジナリーフレンドのはるかは、モモの話を聞かずに一方的に決めつけてくる人達とは違い、モモの話を聞いた上で「ほんとうに、そうかしら?」と疑問を投げてくれる存在。勇敢でやさしく、斜めから光を差してくれる、いちばん古い友達。はるかとの対話により、世界が美しいことをふたりだけで再認識できる。モモは周囲との不和にも平気でいることができた。

モモが初めての恋に気付いたとき、自身の物語の主人公であることを自覚する。誰かの物語の端役ではなく、自分の物語のための主人公の役。
他者のために役を演じてきたモモだが、恋をし、自身が主人公に据えられたとき、それまでの苦痛のひどさがすべてかき消されることを知るのと同時に、意識すらしていなかった細かな傷や孤独が痛みとして感じられた。

恋がうまくいかないと気付くほど、はるかと交わした会話で越えた夜を疑うようになってしまう。認識してしまった傷の痛みは残る。世界に向き合っても願いは叶わず、そのこと自体、モモ自身が世界にとっての異物であると感じさせる。そして、「先生」との恋は遂に叶わない。

好意からモモを神格化する同級生に対し、故意に傷つける言動をする。モモが無意識でも「先生」に救ってもらおうとしていたかもしれないということを彼の発言によって気付かされ、モモ自身を彼に重ね、自分を罰するように発した言動。

自身に課したルールのために目の前の人を傷つけてしまう嫌悪、他者に対してやさしくなることができない苦痛から、モモははるかを自分の手で殺してしまう。
自身の恋のために他者を押し退けたことや、はるかを殺したことが、やさしく生きようとすることを自分で諦めた罪となり、孤独でいなくてはならないという罰を自身に課す。

■第二章

モモはAV女優になる。
『自分の処女を不特定多数に差し出すことで、自身を聖なるなにかにしてしまおうと目論む。』マグダラのマリア、娼婦、聖女。
不特定多数を慰める役割を自ら担うことによる贖罪、自罰的行為。

AV女優の活動において心無い言動・扱いを受けることはあるものの、大事にしてくれる人が増えていく。
マネージャー久保田のお陰もありつつ、モモを傷つけて辱める言葉を使う人が徐々にいなくなり、平和な環境を手にいれる。モモはようやく普通の人間のようになれた気がした。

そのとき、あるミュージシャンにモモが送った手紙の内容を、そのまま曲にされてしまう。
カルマを背負ってステージに立つミュージシャンの姿に激動的な光を見たモモの、モモ自身が恥ずかしいと感じる生い立ちを少し話してみたいと書いた手紙。

本来広まるはずがなかったモモの過去が、全く想定していない形で世の中に発信される。
その歌はモモにとって、AV女優以前の自罰的な人生から逃げ出したことに対する叱責のように感ぜられた。
そして、もっと遠く懐かしく美しいはずのモモの世界が、具体的で生々しい傷を負った「かわいそうな女の子」のイメージとして世界に流布されている。

『ミュージシャンが自分のことを歌にしてくれることは本来誰もが羨むこと』なので、モモは好意的なものとして受けとらなくてはならない。
怒りや恥ずかしさなどの苦痛を表明することも出来ず、「個人的な秘密をばら撒かれたくない」という気持ちも自分でわがままであるように感じる。
モモはAV女優として不特定多数を慰める役割を担うという自身の贖罪から逃れられない。

しかし、広まるはずのなかった過去が歌にされてしまったことにより、モモ自身だけでなく「先生」をも巻き添えにしてしまった。「先生」に対してモモの恥の一部に巻き込んでしまった罪悪感が起こり、贖罪の果てに「先生」にほんの少し近づく、というモモの希望も壊されてしまう。
せめてその歌ではなく、モモが自分を語り直してイメージを再構築させ、歌の中のモモ「らしい」人間、「かわいそうな女の子」として演じることを覚悟する。

半ば自暴自棄の行為だが、これまでモモが贖罪として続けてきたことでもある。
ふと、あるファンのことを考え、モモはまた同じ過ちを繰り返そうとしていることに気付く。その時に聞こえたはるかの声。
懐かしいはるかの声により、自分が本当に望んでいることを改めて考え、自罰的な意識としてではなく、モモ自身のために行動する。

■第三章

モモは同じAV女優として活動する女の子たちと接して、彼女らの清純さを知っていく。
モモは普通に生きていくなかで、自分以外のすべての女の子が自分よりもずっとましなのでは、と思うことがあった。
しかし、それぞれ気遣いを持って生きている彼女らを見て、生身でやさしくあろうと生きていることに共感と、そんな彼女らとモモが仲間であることに心地よさを覚える。彼女らにモモと同じやさしさを見つけることで、モモ自身のことを客観的にやさしく思える。

それと同時に、モモや彼女らを人間として扱わない存在に対して憤りを持つ。
女優を見下したような対応を取り続けるメーカーや、女優の精神衛生に気を遣わず利害しか見ていない事務所、未熟な欲求の発露をそのまま女優にぶつけるユーザー。

助ける価値の無い人に手を差しのべ自分の身を傷つけ、その怪我を治す時間を本当に助けなければならない人に使えない。後悔、自責、その苦痛すらもひた隠すこと。これらをやめなければならない、とモモは考える。
贖罪は終わりを迎えていた。

具体的な悪い事象さえも光の粒子に分解・攪拌され、同じ光として点滅していく。それゆえ、モモに対してある瞬間3次元的にどのような悪いことが起きたとしても、それより上の次元でモモは光を見続けることができる。モモ固有の幸福。光を映すことができる芸術として、モモの知覚する世界に近い映画を選択する。映画を通して、モモと根源的なところが合う友達ができる。

モモはかつて住んでいた土地を訪れる。『もう二度と、よこしまな気持ちで命を使いたくない。』自身の命を芸術に使うための決意。『誰にも寄りかかってはいけないのだと決めつけながら生きている、早く死にたいひとりの少女』、昔の自分を想像し、はるかと同じことばをかける。はるかはかつてモモがそうありたかった存在であり、モモは今、はるかとして生きている。

引退の予定を公表した後の撮影で、モモがAVデビューした時に初めて共演した男優の松岡と、久しぶりに共演することになる。モモはデビュー時とは違い、撮影中でも周りを見ることができる状態である。台本では松岡が扮する役に乱暴されるという内容であったが、モモは演技中の松岡による細かな優しい扱いに気付く。
罰を受けるための環境としてモモが選択した場所で、性欲とは遠く離れたやさしさ、プリミティブな愛情をモモは受けているように感じる。
この時、他者に自身を差し出すという自罰的な役割をモモ自身の中で失い、モモは演じることが出来ず赤子のように裸のまま泣く。AV女優をやめて良いのだと、改めて知る。

■モモは幸福のために命を使う

モモは、贖罪のために入ったAV業界をやめて、自身の命を芸術に捧げる決意を持つ。

自身の思想が無視されることを自分で選択し、相手が望むように自身を尽くす役割を担うことは、モモにとって自分を殺すことに直結していた。しかし、幼少から植え付けられた自罰的意識やそこから派生した罪の意識により、モモはその役割を担わなければならず、やめることも許されなかった。

そのため、モモが自身の命を芸術に使う決意ができること、それは「タイミングが合った」「方法を見つけた」など、具体的事柄には本質的に由来しない。モモ自身が幼少より背負ってきた、許されることを諦めていた罪から遂に解放され、モモがずっと助けられてきたモモ自身が見る唯一の世界のため、即ち自身の幸福のために生きていく。その決意である。

■最後に

著者・戸田真琴さんの新作映画製作プロジェクトを応援しています!

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