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VRChatで思い悩む方へ

皆様ごきげんよう、VRChatはやはりというべきかSNS、人間関係や自分の立ち位置といった事で悩む人が多い印象を受ける時があります。
今回はそういった人達へ向けた「悩み」の発生源を可能な限り解説をした記事になります。

実はこの記事、凡そ半分は初心者案内記事の後編に思いついた構文だったりするのですが、記事タイトルに相応しくないと判断し切り分けた形になります。
なので、初心者の方が心得て欲しい内容も幾つか踏まえていたりします。

あくまで個人的な意見のため不快に感じる方も居るかもしれませんが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。

そもそも人間関係は難しい

VRChatはVRで遊ぶ事を前提としているだけあり、没入感も高く色々とリアルなゲームです。
が、現実における人間関係のいざこざもリアルに再現されています。

MMORPGやチャット全盛期の人には経験がある方も多いかもしれません、ギルドやグループ内で仲間割れが勃発したり、集団の中で村八分にされたり・・・
あまり気持ちのいい話ではありませんが、この手のいざこざは今に始まった事でも無かったりします。
この点はVRChatも同様で、一見すると美少女や可愛いに溢れた楽園にも思えますが、一皮剥けばリアルな人間関係が待ち受けていたりします。

人には好き嫌いというものがどうしても存在しますし、嫌ってはいないものの相性の合う合わないもあります。
趣味嗜好も違えば、何を信奉しどんな価値観を持っているのかも異なっているのであれば軋轢やすれ違いが起きるのは必定、争いや意見の食い違いが起きるのは自然な事と言えます。
辛い食べ物が大好きな人が居れば大嫌いな人も居る、そんな具合でしょうか。

なので、最初から全員と仲良くするという事は端から諦め、自分と気の合う人同士で集まって楽しむのが一番良いと私は判断しています。
無論、可能な限りの人に好かれたり、敵対視されないのであればそれに越した事はないのですが、全員に好感を持たせるという事は不可能に近いです。

後悔しない行動を

昨今、Twitterの発言で炎上をしたり、VRChat内での行動が問題で悪評が立ったりという事を多く見かけるような気がします。

こういった問題に直面する度に、2002年に放映された.hack//SIGNというMMOを題材にしたアニメの登場人物が言っていた「リアルでダメなやつはネットにきたってダメ、 ネットをなめるな!」という言葉を思い出します。
これは「どうせログアウトすれば関係が無い」「関わるのが嫌ならしばらくアクセスしなければいい」と言い張る主人公に対して言った台詞なのですが、放送当時はなかなか認知されにくい台詞だったように思います。

というのも、当時はネットというものはPCを持っていたりネットに繋いだゲーム機があって初めてアクセスできる代物で、この概念はなかなか理解されるものではありませんでした。

ところが、時が経つにつれネットは大衆化し、老若男女誰でもアクセスできる空間になりました。
今やゲームはネットに繋がっているのが当たり前ですし、へその緒と一緒に生まれてくるんじゃないかと言わんばかりに全員スマホを持っています。

こうなってくると状況は変わります、端末をオフにして、なんならアカウントを消してしまえば人間関係がリセットできた過去とは違い、ネットのどこかでやらかした失敗はどこまでも追いかけてきます。
オフ会が盛んで、声や仕草がダイレクトに出てくるVRChatでは尚更の事です。

SNSの発展でそれぞれ発言が容易になり、しかもログを漁れば過去発言をした内容を見る事もできますし、画像なり動画なりでデータの保存も可能です。
これは便利な事であると同時に大変恐ろしい事でもあります、Twitterを例にとってみれば鍵アカでもない限り、見ようと思えば自分の発言を全世界の人が見る事が可能なのですから。

なので「どうせネットだから」「どうせゲームだから」と軽く考えている人は注意をした方が良いと強く警告します。
アカウントを変えても、名前を変えても、プラットフォームを変えようとも過去は追いかけてきます、後悔してからでは遅いのです。

人は失敗をするものですし言葉のあやもあります、油断や失言も当然ある事でしょう。
それは私とて例外ではありませんが、現実と同じ位には行動や発現には気を使うべきだと私は思います。

クリエイターである事は必要な事か?

VRChat内ではモデリング、音楽、絵、或いはバーチャルYouTuberの方だったりと様々な物やコンテンツを作り出しているクリエイターの方が数多く存在します。
実際、VRChatは様々な創作活動を行いやすい空間で、自己表現活動の一環として活動されている方も多くいますし、そのクオリティの高さは目を見張るものがあります。

とはいえ、創作活動をしなければならない、何かを作り出すクリエイターにならなければいけないという事は決してありません。
創作活動を楽しむのは大変良い事かと思いますが、無理をしてまでやる必要はないのです。

最初は楽しかったのに今は義務感でやっているという事、ありませんか?
創作をする動機はそれぞれですし、義務感でやるのも必ずしも悪い事だとは思わないのですが、こういった状態になっている方は危険かと思います、少なくとも自らを追い込んでいる状態である事に変わりありません。

「商売として考えている」という例外を除いて、VRChatを楽しむ上でクリエイターである事は必須ではないのです。
何かしら創作活動ができるに越したことはないとは思いますが、創作活動「も」楽しめる空間がVRChatであるというのが私の考えです。

下方比較の危険信号

突然ですが、あの人に比べれば自分はまだ大丈夫だとか、あの連中に比べたら自分はずっとマシだとか、思った事はありませんか?
こういった状態を社会的比較理論において下方比較と呼んだりします、要は下には下が居ると自分に言い聞かせ安心を得るという行動です。

人は無意識的に他者より上で居たいという本能が働いています。
自分に自信が無くなってしまったり、大きな失敗をして落ち込んだ際にこの下方比較は起きやすく、自らの心の均等を取るための防衛反応と言っていいでしょう。

下方比較そのものは無意識にやっている事であり、自尊心を守るという観点から見れば決して悪い事とは言い切れないのですが、繰り返されるようであれば問題です。
何故ならこの状態「自分は悪くない」と言い聞かせているのと同義であり、なんの解決にも繋がっていないのです。

例えば、何か作品を作る上で敵わない人物が存在したとします。
その人をいつか超えて見せようと努力を積み重ねたりするのではなく「私は一応作品を作れる、他の人よりも優れている」と自分に言い聞かせるのは果たして健全な状態だと言えるでしょうか?

答えは否、挫折や失敗は何をするにしても経験するでしょうが、下ばかり見ていては成長の機会を失いかねません。
困難や失敗を反省、改善し、前へ進もうとする事を決して忘れてはならないと私は思います。

尚、自分よりも優れていると思える人物と比較して改善のヒントを得たり、自らを高めようと努力をしたりする事を上方比較と呼んだりします。
一見すると良い事のように思える上方比較ですが、あまりにも上の人と比較をしてしまうと気持ちが落ち込んでしまうという弊害もあります。

マラソンで用いられる「まずはあの電柱まで走ろう」という、細かな目標を積み重ねていく事が重要なのかもしれません、千里の道も一歩からです。

他者と比較する危険性

ジョジョの奇妙な冒険第1部にてライバルであるディオと比較され劣っていると言われ、主人公のジョースターが深く傷つくという描写があります。
似たような表現は多々ありますが、人間は自己を否定されるよりも他者と比較される方が深く傷つく傾向があるのです。
これは他者から指摘された際は勿論の事、自分と他人を比べた際にも起こり得ます

VRChatにおいてもこの傾向は存在し、自ら作り出した作品が思ったように評価をされない、もしくは作品を作ったり表現したりできないから劣っていると思う人が少なからず居るようです。
人から見た際の自分の評価というものは気にしないよう努めても気にかかるものです、とはいえ気にしすぎるのも問題です。

そもそも評価基準というものが曖昧です、劣っている、優れていると思う部分は何なのでしょうか?
いいねの数なのか、売り上げ料金なのか、フレンドの数なのか。
価値観は人によって異なるものです、数字だけ見て動いたり、上か下かを考えて動くというのはあまり意味をなし得ません。

更に言ってしまえば、自分が上と見ている、憧れている人物も悩みや劣等感を抱えていると考えてほぼ間違いないでしょう。
人は万能ではありません、誰しも悩めば苦悩もします、良い意味で「どうでもいい」と割り切れる寛大さを身に着ける事が重要です。

ルサンチマンに陥るべからず

ルサンチマンとは、思想家のセーレン・キェルケゴールが想定し、哲学家のフリードリヒ・ニーチェが再定義した言葉で、分かりやすく言うと強者に対する弱者の憤り、恨み、憎悪、非難といった鬱屈とした反応の事です。
もう少し具体的に言うならば「周り(あの人)は成功しているのに、それに比べて自分は・・・」と凹んだりするのもこれにあたります。

ネットの普及によって自分と他者を比べる機会が激増した結果、このルサンチマンに陥る人が増えている印象を受けます。
他人の成功を妬み足を引っ張る人は実に多い、とはいえそれは不毛な行為と言ってもいいでしょう。
何故なら、仮に相手を何かしらで自分と同じか自分以下の立場へ蹴落としたとしても、そんな事をしている内に他の人が伸びていき、蹴落とす対象が移り変わるだけで延々と終わる事はありません。
出る杭は打たれると言いますが、打っている間に他の杭が出てきてしまっては結局振り出しに戻る事になります。

ニーチェは、ルサンチマンは人の本能的な行動原理と考え、これを克服する事により強者たる人間になると考えたようです。
これは即ち、他者を羨んだり妬んだりする事なく問題を受け止め、前へ進まなければ現実は変わらないという事でもあります。

余談ですが、花沢健吾先生が2004年に描いたVRを舞台とした漫画「ルサンチマン」もこの言葉の意味を考えさせられる作品だったりします、おすすめです。

投げ出す事も時には重要

1991年、大事MANブラザーズバンドというグループの歌に「それが大事」というものがありました。
一世を風靡したこの曲のサビはこんな具合です。


負けない事、投げ出さない事、逃げ出さない事、信じぬく事
ダメになりそうな時、それが一番大事
負けない事、投げ出さない事、逃げ出さない事、信じぬく事
涙見せてもいいよ、それを忘れなければ


この歌詞は今考えるとなかなか恐ろしいものがありまして、気持ちが落ち込んでいたり鬱になっていたりする際に全てやってはまずい事です。
歌を歌った張本人である立川俊介氏も24年間歌った結論として「何が大事かわからなくなった」と語っています。

当時の世の中はバブル全盛期「24時間働けますか?」の時代でしたが、根性論が通じるような世の中では最早ありません。

逃げる事もまた勇気です、何をもってして負けるか勝つかは人によりけりで違います。
信じぬいた結果碌な目に合わないというのも多々ある事です。
限界だ、前へ進めないと思った際には容赦なく投げ出して問題ありません。
本当に大事なのは負けても死なない事です、少なくとも後を引きずったり取り返しのつかない事に繋がるよりかは余程良いかと思います。

自分だけで解決しようとしない事

責任感があるのは良い事かと思いますが、人には得手不得手というものがあります。
もし何か問題にぶち当たり、自分の中で解決策が出ないのであれば他の人を頼る、意見を伺うというのは重要な事です。

ただし、意見を募るのであればなるべく多くの人から聞いた方が良いと思います。
その人が正しいと思う事は他の人にとっては違うかもしれない、いくつもの意見を参考に自分に最も適切だと思う意見を採用ないし参考にすると良いかと思われます。

終わりに

ここまで読んで頂きありがとうございます。
最初に言った通り、VRChatはSNSであるが故に人との付き合い方に関しては現実世界の問題がそのまま当てはまってしまいますが、広く問題解決の手段を取れるというのが魅力的な点でもあります、愛嬌のあるアバターを纏いコミュニケーションを図るというのはその代表的な手段と言ってもいいでしょう。
折角現実とは違う仮想現実なのですから、取れる手段は全て取って動いてみる事を私はおすすめします。

最後まで読んで何かしら思う所はあったかもしれませんが、行き詰っている人の問題解決の参考になればこれ程嬉しい事はありません。

最後に、フリードリヒ・ニーチェの著書、「曙光」から引用をして終わりたいと思います。


「自分自身と友人に対しては、いつも誠実であれ」
「敵に対しては勇気を持て」
「敗者に対しては、寛容さを持て」
「その他あらゆる場合については、常に礼儀を保て」


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ニーチェの唱える四つの徳を守れば大体なんとかなると思います

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