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ヤベェやつらから逃げ出したヤベェやつの話⑤

大きな大きな館内図の、一番下の階の隅っこ。

そこだけ違う書体で作られたテープが貼られているのを見て、後から出来た部署なのかなと、なんとなく思いました。


直通の電話番号と一緒に”DV相談係”と書かれたメモをもらった翌日、仕事終わりに再び役所へ向かいました。

公営住宅の話を聞きに行ったらDV相談を勧められたのは、あの時の私が”薬をちょっと飲みすぎただけのただのめちゃくちゃ眠い人”で、頭も言葉もまだ本調子じゃなかったからなのか、何日も洗っていない髪や顔から何か異様なものを感じ取ったからなのか、わかりませんでした。


虐待か、虐待ではないか。正直そんなのはどっちだっていいと幼い頃から思っていました。

私を取り巻く環境や人間が周りから見て異常で、虐待にあたるものだとしてもそうでなくても、私がそうではないと思えばそうではない。
相手から受けたものに対して痛みを感じ、自分のことを被害者だと思ったとしても、相手にとってはそうすることが正義だったのかもしれない。

そんな考え方一つでどうにでも変化してしまうような不確かなものに縋ることは無意味でしかない。それよりもっと現実的で消えないものが欲しいと、いつも思っていました。
目の前のことを塗り替えて、その瞬間だけでも楽しく生きれればいい。私の育った環境や周りの人間、そして私自身に名前を付けてもらったところで急にすべてが変わって幸せになるわけでもない。″あなたは恵まれない子だけど幸せになる権利がある″なんて言われても、だからなんなのだ、としか思わない。言葉でどう言われようとそれはその場限りの応急処置的なもので、永遠には続かない。

そんなものより、今日食べるものがほしい。まわりの目を気にせずゴミを出せるところに住みたい。蛇口をひねればお湯が出て、顔を洗って歯を磨ける家が欲しい。洗濯をした服を着て出かけ、夜になれば布団に入って眠る。そんな普通の暮らしができればそれでいいのだと、ゴミにまみれて震えながら、いつも願っていました。

でも、私がそれをするには、もっと深いところからすべてを入れ替えなければいけない。
そのためには、自分から声をあげなければいけない。
『変わりたい』
『助けてほしい』と。


でも。

自分はおかしいのかと聞いて、その通りです、なんて言われてしまったら。
生きる上で選んできた道を、それは間違いでした、と言われてしまったら。

私は、自分のことをおかしいと思いながら、受け止めることが怖いと思っていました。母や親族のことをおかしいと思う自分こそおかしい。お前こそ本当の悪者なのだと、誰かに、本当に言われてしまったら。おかしいと思いながらもどこか完全に狂いきれていない、そんな自分はあの人たちとは少しだけ違うのだと信じてきたことが失われてしまったら、今度こそ壊れてしまう。そんな気がしていました。

だったらもういっそ、自分は恵まれない可哀想な人だと演出し、なりふり構わず泣き喚いて手を差し伸べてもらえばいい。私は高潔で絶対的な正義なのだと、そうやって振舞って、『あなたは正しい』と言ってもらえばいい。

その方がずっと楽に、自由になれると思いました。


ただ、そうやって手にした日々を、自分は心の底から楽しいと思えるのだろうか。
後ろめたい気持ちを誤魔化しながら、塗り固めた自分のまま、友人やきょうだいに顔を合わせられるだろうか。


きっと一生、自分で自分を許すことは出来ないだろう。
虚しさばかりが残って、沢山の後悔の念に押しつぶされて、生きることに耐えられないだろう。


”すべてに対して正しくあろうとすることは悪いことではないけれど、その生き方は本当に危ない目にあった時に障害になる”と、友人は私によく言いました。

『正しく生きること』ばかりに拘り、身動きが取れず沈んでいくのを待つくらいなら、『ただ生きること』に舵を切ってしまえと。
生きたいともがき、助けを求めることは『逃げ』ではないのだと。
そこまで考えてもどうしたらいいのかわからないなら、『わからない』と言えばいい。ただ、それだけなのだと。




殴られて痣ができたわけでもなく、死ねと言われたわけでもない。ただ、あの人達がとても怖い。
それは抽象的で、自分の一方的な価値観でしかないから、やはりただの好き嫌いでしかない。
だから、自分がおかしくて人より恐怖心が強いだけなのだと、自分を何度も納得させた。
自分にとっての事実はこうだけど、相手は違うと言うからそうだと思うようにした。
凄く辛い。でも、何が辛いのかわからない。
自分の本当の気持ちがどこにあるのかわからない。
何が正しくて何を信じればいいのかがわからなくなってしまった。

いざ話すと稚拙な言葉しか出てこなくて、ちゃんとした形になる前にパラパラと口からこぼれ落ちていくようでした。でもまあいいやと思いながら、落ちる涙や鼻水もそのまま、ゆっくりゆっくり話しました。

本当に″おかしい″人は、自分がおかしいのかもしれないなんて思わないということ。
そんなことを思いながら生活しなければならない時点で”狂っている”ということ。
怖いものから逃げたいと思うことは正しいか正しくないかというものでなく、命ある人間ならば当然の防御反応で、″普通″であること。
怖い、悲しい、辛い、わからない。そう思うことこそ″人として正常″であること。
目に見えるような怪我は受けていなくとも、私が彼らから受けた言葉は生活と生命を脅かす、紛れもない″暴力″だったこと。

だから私たちはあなたが生きることを諦めない限り助ける、そのためにこの場所は出来たのだと、相談担当の女性は静かに言いました。


誰にも頼らず一人で生きるなんてことは実際には不可能で、そんなに潔癖に生きていられるほど、この世界は完全ではありませんでした。

いまだに血が流れ続けている傷口を見ることはとても恐いことで、治したいと誰かに訴えて見せることには覚悟と痛みも伴うけれど、そうすることでしか塞がらない傷口は案外多いのかもしれないと、そう思いました。

本当はずっと、誰かに助けてほしかった。
怖いことや苦しいことが多くても、心のどこかでは生きることを諦めたくないと思っていた。
私は幸せだと手放しに喜べるほど満ち足りたものではなく、かといって誰かのせいにして好き勝手に振舞えるほど中身のない人生ではなかった。

全く干渉しない母と、干渉し過ぎる親族。どこまでが愛情でどこからがそうでなかったのかはわからないけれど、今の自分が困っていることだけは本当で、事実。
そして私が手を伸ばすべき方向は、きっと彼らではない。


『助けてください』と、初めて人に言えた瞬間でした。





(つづきます)

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