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ヤベェやつらから逃げ出したヤベェやつの話③

父方の親族の家に引っ越して数ヶ月が経ち、当時東京の不動産会社に勤めていた友人の協力もあって、私はとうとう上京することが決まりました。


11月の夕方。東京行きの電車に乗って、夕日の橙色に染まった新居の鍵をずっと眺めていました。

いろいろな縁が繋いでくれている気がしてなりませんでした。母や実家の人たちから離れていくことを応援されているように思えて、これで良かったのだと、そう思いました。


東京での暮らしは思っていたよりもずっと楽しくて、初めて自分が自分の人生を歩んでいると実感できる事が多かったように思います。

東京で出会った人たちの程よい距離感が楽でした。
標準語を話している自分は違う自分のようで好きでした。
いろいろな背景のある人たちに紛れて生きているというシンパシーに包まれて、いつも安心していられました。


もうずっと何十年もここにいたのではないかと思ってしまうくらい、そこで生きることが自然になっていました。
たまに地元の友人やきょうだいのことを考えて久しぶりに会いたいな、と思うことはあれど、実際に戻りたいと考えるようなことはなくて、来年もその次の年もずっとずっと、私はここで生きているのだと思っていました。


だからこそ、東京を離れるという現実に、いつまでも頭が追いつかずにいました。
誰よりも忌み嫌っていた母と同じような道を辿りつつあることを認めるしかない自分と、それでもここにいたいと浅ましくも願う自分と、これを機に今度こそもう一度『親子』に戻れるのかもしれないと期待する自分。

もう、何も考えたくなくて、いなくなる準備をしながらたくさんの理由を作り、自分に言い聞かせました。



実家での日々

東京から地元に戻った私は、怒りを感じることも悲しみで涙が出ることも無くなっていました。
みんなが言うことをそのまま受け入れ、望まれるであろう答えを言葉で返し、目の前にある現実をただ受け止め、もうこれ以上自分の深いところまで傷つくことがないようにやり過ごしていました。

アパートを借りて母と二人で暮らそうと思っていた私は『また借金を作られたらたまったもんじゃない』と親族の大反対にあい、実家で生活することがすでに決まっていました。東京にいた時に途中まで決まっていた債務整理の話も引越しの影響で白紙に戻り、肝心の母とも連絡が取れず、何の為に戻って来たのか分からずにいました。


あの頃の生活は一日の大半を仕事と家事に費やしていて、毎日の睡眠時間は4時間あるかないかだったと思います。

とにかく誠意を見せなければと考え、自分の通帳とキャッシュカードを全て親族に預けました。給与明細や私宛に届いた書類は全て内容を口頭で伝え、現物やコピーを保管したいと言われるようになってからも、素直に了承しすべて渡しました。
全員の食事を作り、食べ終わるのを待ち、大量の食器を洗い、シンクに野菜の切り屑がひとつでも残っていれば写真付きで長文のメッセージが送られてくるため、毎晩隅々まで掃除しました。
指が赤切れになり薬を塗って絆創膏を貼っていれば、それくらいで大袈裟だ、勿体無いと逐一言われるため、貼るのをやめました。
私がいない時間に部屋に入って私物をチェックされていること、盗撮して身内で共有されていることに気づいても、黙って普段通り過ごしました。


言われることに全て従いました。徐々にエスカレートしていく彼らの要求に必死になって喰らい付き、指が血だらけになっても通勤中に歩きながら寝てしまって転んでも、絶対に心までは弱みを見せないと決めていました。

東京に戻りたいなんて言えるような立場ではないと思いながら、それでもこの家での生活は何かがおかしいと気付いていました。今やっていることが間違った努力なのかもしれないと思っても、この日々はいつか彼らの元から逃げるための道になるはずだと信じ、そのためなら何だってやってやるさと、一日一日を踏み締めるように生きていました。



4月28日

その日は久しぶりに姉と会って、二人で映画を観に行っていました。
そろそろ帰ろうかと話していた時、珍しく実家から姉に『家に寄って』と連絡が来ました。

その頃の私は親族に対して完全に心を閉ざし、言われることには従えど自分のことは話さないようになっていました。そんな私の態度はもとから他人の全てを把握したがる彼らにとって大きなストレスであり、そのうち向こうから痺れを切らして何か言ってくるだろうな、と考えていました。

その日の夜、彼ら曰く『関係をより良くするための話し合い』が急遽執り行われました。公平に両者の言い分を聞く中立的な役として招かれた姉の前で、なんか裁判みたいだなあとどこか他人事のような気持ちでその場にいた私は、親族に『思ってることがあるなら正直に言って』と言われた時、ようやくこの瞬間が来たかと歓喜しました。

ならば好き勝手に言わせていただこう、とばかりに今までの不満を言おうといざ意気込んだ瞬間、なぜか急に涙が溢れてきて止まらなくなりました。


やっとかろうじて言葉になって出てきたのは、『もう限界』という一言でした。



その場にいた誰よりも、自分自身が一番驚いていました。ようやく言葉として吐き出した後、自分で『あ、もう本当に限界なんや』と気づきました。

とめどなくジャバジャバと流れ出てくる涙やら鼻水やらで色んなものを液体まみれにしながら、あの時はこうでこうだったのにお前らは何もしてくれなかったじゃないか、綺麗事ばっか抜かしてんじゃねえ、私はお前らの物じゃない、ほっといてくれ、殺してくれ、いっそ死なせてくれ。部屋に遺書もあるんだいつだって準備はできてるんだぞ。これ以上干渉するなら死んでやる。そんなことを延々と喚き散らしました。


今まで反抗らしい反抗を一つも見せてこなかった私にとって、生まれて初めての経験でした。
我儘を言ったところでどうにもならないことばかりだとずっと諦めて生きてきた自分が今、子どものように大声をあげて、泣いて、この人達に抗っている。
物凄く清々しくて、とうとう言ってやったぞと、自分をどこか誇らしく思いながら呼吸を整えていた時、親族の一人が『あーあ、もうダメだ』と言いました。


一気に身体が冷えていくのを感じました。


心のどこかで『これでわかってくれるはず』と思っていました。
私にも感情があって、人を嫌う心があるんだぞ。今まで大人しく言うことを聞いてきたのはお前らを盲目に慕っていたからじゃない、むしろ逆なんだと本音をぶつければ、彼らは私を物ではなく人間として扱うはずだと、勝手に思っていました。

でもそれは、実際には違っていました。最初から話し合いなんてするつもりはなく、住むところを提供している自分たちに抗おうものならいつだって放り出せるのだ、調子に乗るなとわからせる為の″躾直しの時間″に過ぎなかったのです。

私がぶちまけた不満に対して、彼らは細かく″返答″していきました。

その内容はすべて、『そんなの言った覚えはない』『お前の捉え方の問題』『みんなそう思ってる』といったもので、彼らが中立的な役として招いたはずの姉がストップをかけた後もしばらく続きました。
混乱する頭の中で、この場を収めるためにも謝ったほうがいいのではないかと思った私は、何に対しての言葉なのかも自分でわからないまま、ひたすら謝罪をしました。


土下座なのか何なのかよくわからない格好で、グジャグジャになった頭を下げて、『心にもないことを沢山言いました』『偉そうにごめんなさい』と、思いつく謝罪の言葉をひたすら伝えました。



惨めだと思いました。



ゴミの山の中で死んだように眠っていた母よりも、人目を忍んで公園で頭を洗っていた子どもの頃の自分よりも、ずっとずっと惨めでした。

あの頃望んでいた、人間として当たり前の生活をしているはずなのに、どうしてこんなに辛いのか。どうしてこんなことになったのか。どうしてこんな人たちに自分は頭を下げているのか。



そうか、全部自分が原因だったのか。



この人達がよく言っていたように、私は助けてくれる人に感謝ができない薄情者で、母親と同じように逃げてばかりの弱い人間だから、いつもこうなる。
私の心が弱いから、いろんなことを大袈裟にとらえてしまう。
いつも自分の問題から目を背けるための言い訳ばかりして、自分の価値観を一方的に押し付けている。
私が中途半端に生きているから、こうやってみんなを困らせている。


本当におかしいのは私の方で、みんなは普通の人。
みんなが言うことはいつも正しくて、好き勝手に生きて借金まみれになった私が悪い。
なにもかも自分が原因だったんだ。そう思いました。



『私達のこと、嫌いにならないでね』


半笑いでそう言いながら、誰かが私の背中をさすりました。目の前が真っ暗になって、何も聞こえなくなりました。



何かが折れてしまった。そう感じました。





(もうちょい続きます)


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