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ヤベェやつらから逃げ出したヤベェやつの話⑦


くも膜下出血の手術を終え退院した後、しばらく実家で静養していた母に久しぶりに会いに行った日。彼女は庭の花壇に水やりをしていました。

すこし水の出が悪いホースを掴んでゆっくりと進む彼女の数歩後ろを歩きながら、なんかアヒルの親子みたいだなと思っていると、誰かが植えたらしいラベンダーを見つけた彼女は私に手招きして言いました。


『ラベンダーの匂いってどこからしてるか知ってる?』


思わず、『はあ?』と声が出ました。
そんなことより治療費だとか、店の維持費だとか、色々話しておかないといけないことがたくさんあるだろう。たった今だって土地の相続とか、お葬式の相場の話をしていたというのに。

そんなことを思いながら仏頂面でそこへ行くと、彼女はラベンダーの緑色の葉のような部分を指で擦り、私の鼻に近づけました。



『花からじゃないんだよ』



指が離れてもじんわりと残る、独特な透き通った香りを感じながら、まるで普通の親子のようだと思いました。


こうするといいんだよ、と子どもに教えるように。

雛に食べものをやり、飛び方を教える親鳥のように。



ねえ。 もっと話しておかなければならないことがあるでしょ。


憎くて憎くて堪らないけど 嫌いになれなくてずっと苦しいんだよ。


もっと知ってほしいし知りたいんだよ。


人っていつ死ぬかわからないんだよ。


だからその前にもっと話をしようよ。




たくさんの人に憎まれたまま死なないで。





離れていた間たくさんの言葉を覚えたはずだったのに、何ひとつ、出てくることはありませんでした。






お祈り


荷物を持って家を出たあと、公園の敷地内にあるベンチに座りながら、しばらく空やら山やらを眺めていました。
やうやう白くなりゆく山ぎは、って感じだな。やっぱりまだちょっと眠いな。このベンチ壊れそうだな。そんなどうでもいいことを考えながら、母に連絡するかどうか、ずっと決めあぐねていました。

ランニングに精を出す人や犬の散歩をする人がちらほらと見え始めてきた時、小さな葡萄のような形をした紫色の花が咲いているのに気づきました。
近づいてみると、てっぺんに小さな白い花が綿毛のように咲いていました。一目見てあの時の花ではないと気づきましたが、緑色の部分を擦って嗅いでみると、濡れた土のなんともいえないにおいがしました。

ただ、話がしたい。 大丈夫と言ってほしい。


たくさんの人に憎まれ、実家から逃げ出した彼女と同じような道を選んだ私を見てなんて言うだろう。『戻りなさい』と言うだろうか。それとも、『何やってんの』と笑ってくれるだろうか。


『今日会える?』

あれこれ考えた末、いろんなことを詰め込んで乗せた六文字のメッセージを母に送りました。

会ってくれ。会ってくれないと困る。頼む。

あの日ふたりで見た花によく似た、ムスカリという花にお祈りをして、公園を後にしました。




おわかれ


公園を出て駅へ向かい、コインロッカーに荷物を放り込んだ後、私はある人の元へ向かいました。

いつも通り器用にタバコを吸いながら車で現れた彼女は私の妹で、昔、アパートでの暗黒時代を共にした家族の一人でした。
彼女は私が東京から実家に戻る少し前から母方の親族の家に住んでいて、経緯は違えど同じ居候の身としてよく相談にのってくれました。私がどこにいても車で迎えに来て、なんかうまいもん食べに行こうと連れ出してくれる。そんな予測できない彼女なりの優しさに甘える日が月に何度かあり、私が家を出た日もまた、そうでした。


彼女は誰からも、何も聞いていないようで、運転している時もご飯を食べている間もいつも通りでした。タバコを吸ったりハンドルを握ったりと忙しなく動いている手元を千手観音かと笑いながら、駅へ徐々に近づく景色をただ眺めていました。


これから私がしようとしていることを話せば、この子はどうするだろうとずっと考えていました。

いつもは自由奔放に見えて肝心な時は礼儀正しく口を噤む子だから、私がすべて伝えなくとも『なんとなくわかった』と言って逃げることを手助けしてくれるかもしれない。
でも、私と違って借金もなく親族との関係は良好で、むしろ彼らに懐いている妹にすべてを伝えるという行動は、いろいろな意味でリスクがあるとも思いました。

彼女を信じていないわけではないけれど、人に優しすぎる子だからこそ、私の居場所を教えろと彼らに泣きつかれたりでもしたらきっと最後の最後には話してしまうかもしれない。連帯保証人の記載もない、なんの法的拘束力もない手作りの借用書を見せられて『代わりに払え』と迫られたら、その場の雰囲気に流されてサインをしてしまうかもしれない。彼女にはそんな危うい優しさがあるのだと、幼い頃から見ていてずっと感じていました。

であればこそ、ヘタにあれこれ話さない方がいいだろう。親族に恩を仇で返した卑怯者として記憶に残った方が、彼らのそばで暮らしている彼女にとっては絶対的な盾になる。彼女が私を軽蔑し憎むことで、親族は彼女に同情し、自分たちの味方だと考える。そうすれば少なくとも、彼女の生活は保たれる。それが彼女の気持ちを無視した身勝手極まりないやり方だとしても、そうするしかない。


彼女と別れ、完全に車が見えなくなった後、親族へメッセージを送りました。

今まで負担をかけていたことと、癇癪を起こしたことの謝罪。

今日から別の所に住み、部屋に残ったままの大きな家財は後日誰もいない時に取りに行くということ。

このことは妹にも誰にも言わず、自分一人で決めて動いたこと。

立て替えてもらった分の返済義務は私にあり、たとえきょうだいでも保証人にもなっていない彼女たちに請求はできないということ。

引っ越した先でも毎月確実に返済していくために、口座振り込みという形を了承してほしいということ。ただ、それがそちらの意に沿わない方法で、何がなんでも一括で支払わなければ家を出ることも許さず、不当な請求だと把握した上でこの先もきょうだいに返済を迫るならば、あなた方を虐待加害者兼債権者として位置づけし、証拠と共に弁護士に提出するつもりでいること。


すんなり家を出ることを許さないなら訴える、ということをいかにもな言葉に変換した、あらかじめ下書きしていたそれらの文章を無心で貼っ付けて送りました。

このメッセージを読んだ上で、それでも口座を使った返済方法を拒むのなら、つまりそういうことだと思いました。彼らが姉に送ったメッセージの通り、私のことを『さっさと出ていってほしい』『顔も見たくない』と本当に思っているのなら、お金だけはまともに返ってくるとわかれば喜んで逃してくれるはず。それでもなお直接的な接触や謝罪を求めてくるのなら、もう、″話が通じない″段階で、第三者を入れなければならないのだと。


そんなことをすればもう本当に後戻りはできない上に、妹とも一生会えなくなる。あの家の誰かが死にかけても病院に駆け付けることもできず、お葬式で手を合わせることもできない。それなりの法律を介入させるということは、私という存在があの家から消えることを覚悟しなければならないということでもありました。


それでも、運転免許をとって車を買えるほど頑張ってきた彼女を巻き込むより、ずっといいと思いました。


いつの間にか来ていた『閉店後なら来てもいいよ』という母からの返信に安堵し、小走りで不動産屋へ向かいました。




(まだつづきます)

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