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回り道くねくね

いつも画像を hanami AI魔術師の弟子 さんのフリーイラストから借用している。以前からX(Twitter)を毎日更新されている方で、(今回の僕のように)SNSに活用されている記事を拝見するうち、機会があればと思っていた。
どんくさい僕の文章にこんなオシャレな画像は不釣り合いと思いつつ、ご厚意に甘え掲載を続けている。自分のnoteのイメージが統一されるありがたさにも、あらためて感謝申し上げます。

SNSをどうとらえ、どう付き合っていくかは人それぞれだ。共通するものがあるとすれば、それが意識的であれ無意識であれ、自分の内面や能力を表現したいとの欲求が存在することだろう。
現実の世界ではなかなか共感されない主義主張、嗜好しこう性を受け止めてくれるフォロアーと、比較的容易に出会えるのがXの魅力だ。
そこが諸刃の剣もろはのつるぎともなり、ひとつ使い方を誤ると、相手も自分も傷つけてしまう。
面と向かってなら軽口で済む「バカみたい」の一言が、時と場合によって人格の否定とまで受け止められてしまうのだ。お手軽な分、他人を傷つけたり、炎上して無差別攻撃をうけたりする自覚が、より必要となるわけだ。

僕は謙遜けんそん抜きに、自身の能力のなさを承知している。だから相手がどなたであれ、居丈高いたけだかな態度をとることなど出来ない(と思っている)。
30歳を過ぎるまでは冷静な自己評価ができず、そうはいっても心の底では自覚しているコンプレックスから、よく知りもしない相手を見下していた。相手をえておとしめる事で、自分の優位性を確保しようとしたわけだ。
あからさまな態度にださなくても、「この俗人め」的な意識から、いわゆる市井しせいの人たちを切り捨てていたように思う。根拠なきエリート意識だ。

20代を過ごした神奈川での関係性を清算し、未知の静岡に移る頃、きものがとれたようにコンプレックスも霧散むさんしていた。
自分の能力の低さを、そのまま受け止められるようになる。だからと、ひねくれたり落ち込んだりするわけでもない。
20代は自分を、「無産者の誇り」みたいに定義づけていきがっていた。一般の社会から、かなりドロップアウトした生き方をしていたのも事実だ。

代わって、低い能力ゆえの、もたざる者の強みみたいな自覚が芽生えた。
分からないことだらけの世の中だから、恥と思わず素直に聞けばいい。31歳で初めて企業に就職して、社会保険がなんなのか、有給休暇がなんなのか、さっぱり知らないところからサラリーマン人生が始まる。

なんといってもそれまで、給料という代物しろものを頂いたことない。
雇用関係のない場所で365日休まず働いていたし、それを特に苦と思ったこともなかった。
自分の金は一切ないのに、集金バッグを小脇に抱え、仕入れの途中で買いたいレコードを買う。それで当たり前の環境にいた。
なのに年に105日も休みがあって、申請すればさらに休め、それで金がもらえるって、一体どういう仕組みだろう。資本家は労働者を搾取さくしゅして、彼らが生み出した価値の一部をかすめ取る存在じゃないのか。やけに労働者を甘やかしているじゃないか。

他人様ひとさまより10年遅れで、”普通”の生活がスタートする。そこに至るまでの20代が無意味だったかと言えば、決してそんなことはない。
ちょっと違う世界に身を置いていたからこそ、平凡なはずの日常がとても新鮮に感じられる。
ゼニがなくとも仕事がなくともなんとかなるさの植木等うえきひとし的楽観主義は、この時代があったから養われたものなのだ。


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