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「スカートを穿いたからって女じゃない」は一周すると性同一性を認めるものになる【Twitterログ】

揶揄する言葉として、性同一性を否定する言葉として、しばしばトランス女性はTERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト)や、トランスジェンダーに対して無知な人によって「スカートを穿いた男」と呼称されます。
これはミスジェンダリングという、トランスジェンダーへの差別の一例でもあります。

ミスジェンダリングの解説については以下の記事を参考にして下さい。

彼ら/彼女らは「スカートを穿いたからといって女じゃない」というように主張します。脱コルセットの文脈でもよく使われるこの言葉、一周するとトランスジェンダーの性同一性を肯定するものになっているのです。

この記事ではそのことについて、れい / Ray Endo(@rayfactory)さんのツイート参考にして解説していきたいと思います。
また、他のツイートもとても素敵だったので、いくつか紹介したいと思います。

「スカートを穿いたから女」ではなく、「性同一性が女だから女」

トランスを揶揄する「スカートを穿いたからって女じゃない」これが答え。シス女性が仮に男性ホルモン摂取して男性装をしたって男じゃないでしょ。なぜなら性同一性は女性だから。同じようにトランス女性がトランジション前に男性装をしていたって男じゃないんですよ。なぜなら性同一性が女性だからね。

TERFは「スカートを穿いたからって女じゃない」という言葉をトランスを否定する言葉として用いています。「スカートを穿いたからって女じゃない」だからトランス女性は女性ではない、トランスを認めないと。

ですが、この理屈には誤謬があります。
女性を女性としているのは性同一性であり、姿形やその装いで決定付けられるものでない以上、「スカートを穿いたからって女じゃない」というのは正しいとしても、「だからトランス女性は女性ではない」とする根拠にはなり得ないのです。

【性同一性について】人間は、自分の性が何であるかを意思とは無関係に認識している。多くの場合は無意識に確信していて、その認識を他人の強制や自らの自由意思で変えることはできない。その継続的認識と確信のことを性同一性という。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7

私の個人的意見としては、シス女性だってズボン穿いたからといって男になるわけではないですし、何を言っているんだろうという感じです。
シスジェンダーとして生きていると、自身の性同一性について考える機会はほぼないので、性同一性と言われてもピンと来ない人もいるかもしれません。しかし、トランスジェンダーの生きづらさや差別は、性同一性と身体が一致しないことで社会から適切な取り扱いが得られないことに起因している以上、それを無視してトランスについて考えることは出来ないと思います。

分からないのであれば当事者の声に真摯に向き合うべきだし、それが出来ないのならば、トランスジェンダーについて言及すべきではないのではないでしょうか。

シスジェンダーはトランスジェンダーに対して強者である

たーふの人ってシスジェンダーとしてトランスジェンダーに対しては強者であることをとことん認めようとしないよね。そしてシスジェンダーと呼ばれることすら拒否する。これは無徴でありたいマジョリティの典型的な行動でもあるのに。自身が弱者であるときに強者にされたことと同じことしてどうするのさ

トランスジェンダーはシスジェンダーと比べて遥かに少数であり、男女別に分かれている施設においては利用を制限されたり、就職において困難に見舞われる等、社会的に不自由を強いられています。
これは社会のデザインが主にシスジェンダー向けのものであるからであり、そういった点においてはシスジェンダーはトランスジェンダーより強者であると言えます。

トランス女性は元は男性として生活していたから強者側だとする主張もありますが、ジェンダーにおけるシス女性にとっての強者はあくまでもシス男性であり、トランスジェンダーではないのです。

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画像引用:#トランス差別を許すな ーここ数年ツイッターで席巻しているトランスジェンダーに対する差別・ヘイトスピーチの形態と手法(https://note.com/bobby_shibaki/n/na71117479d6b)

マイノリティの権利回復のための主張はマジョリティを脅かすことはない

社会構造等によりマイノリティが行使出来ないでいる権利があるとき、それを回復するための主張はマジョリティを脅かすことはないし、それが回復されたとしてもマジョリティの権利の行使の範囲がその分減るわけでもない。むしろ全体が底上げされてみんなが生きやすくなるよ。マイノリティは敵じゃないよ

マイノリティの権利を回復するための主張は、アファーマティブ・アクション(積極的是正措置)と同様の効果があると私は考えています。
マジョリティの権利が脅かされると不安になる人もいるかもしれませんが、マジョリティが当然のように享受している権利が、マイノリティにとってはそうではない場合が多々あります。それを回復させるべきという主張も、回復する動きも、平等な社会とするためには当然あるべき主張・動きであると私は思います。

「トランスの犯罪者が」「〇〇人の犯罪者がいるから危険」という差別の手口に付き合う必要はない

「トランスの犯罪者が」「◯◯人の犯罪者が」いるから危険だ、という主張ね。よくある差別の手口だけど、付き合う必要は全くないよ。じゃあシスにも当然犯罪者はいるけどシスは危険じゃないの?なんなら人間には犯罪者がいるけど人間は危険じゃないの?ほら、最初から破綻しててロジックですらないよ。
「だから何?」で終了です。

私個人の考えとしても、差別的言説には一切耳を貸す必要がないと考えています。その最たるものとしては「〇〇の犯罪者が(あるいは犯罪者と見分けがつかない)」というものです。
マジョリティであろうとマイノリティであろうと犯罪者は犯罪者です。犯罪を犯したから犯罪者になるのであって、属性は関係ありません。マイノリティ属性と犯罪者を同一視する考えは偏見を土台にしていることも問題ですが、それ以上に差別扇動などでよく使われる手法であることを問題と考えています。

マジョリティ「決してマイノリティを差別したいのではない、ただ犯罪者のマイノリティと善良なマイノリティの見分けがつかないから、マイノリティを恐れるのは仕方ない」

このマジョリティ/マイノリティに適当な語句を入れてみて下さい。
白人/黒人、健常者/発達障害、日本人/外国人、異性愛者/同性愛者、シス女性/トランス女性。この論理が正しいとも、正当化されうると私は思いません。ひどい屁理屈です。

人は属性ではかれるものではないし、他者がこうであると決めつけることも出来ないはずです。差別は恐怖(フォビア)を正当化するものではありません。「〇〇はこうである」と決めつけることが出来るというのは一種の傲慢だと私は思います。

人を人として接するように、トランス女性も犯罪者ではなく人間として取り扱うべきでしょう。誠実な対応を求めるならばの話ですけれど。
そうしないということは、初めから誠実な対応を期待せず、求めてすらいないから一人の人間として接する姿勢を放棄しているのかなと疑いたくなる人もネットには結構いらっしゃいますが、正直何をしたいのか疑問が残るところです。


まず目の前の人が自身とは異なる生き方をしていようと、性が異なっていようと、性的指向が違っていようと、一人の人間として相対すること。それが一番大事なのではないでしょうか。そう思うのです。

参考🍋


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