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「心の花」

 「花さき山」滝平二郎・岩崎書店

 いじめの報道が耳に入る。いじめる側の心の中でもいじめられる者の心の中でも、それを耳にした私の心の中でも、花がひとつ枯れる。心に咲く花の数が減るたびに、またひとつ花を咲かせたい、花を咲かせなければと思うのだけれど、哀しい事が多すぎると、人は花の咲かせ方を忘れてしまうのかもしれない。しばらく重い気持ちが続いていた。
 誰かをのけ者にしたり貶めたりして自分が優位に立ちたいと思う気持ちは、本能のひとつなのだろうか。それとも過酷な競争社会が作り出した歪みの一種だろうか。いずれにしても人間の場合、その排斥行為は、発達した知能ゆえに残酷で複雑な形を取る。本来なら知能が働いて、理性と言うブレーキが働く筈なのに。
 いじめは今に始まった事ではなく、いつの時代にもあった。私が子どもの頃にもいじめはあり、「汚い」とか「ばい菌」と言われて執拗にからかわれる子はいつでもいた。その子が放つ「異分子」の気配は、もともと持っていたものではなく、からかわれるうちに体に殻のようにくっついてしまったのではないか、そんな気がする。ただ昔は、教室という入れ物の密度と濃度が今よりずっと薄かった。すき間だらけで、負のエネルギーの逃げ場がいくらでもあった。教室の外ともなればもっとすき間だらけで、大地や空がいくらでも不穏な事を吸い取ってくれたように思う。現代の学校の教室を、民俗学者の常光徹さんが圧力鍋に例えていらした。教室だけではない、今は社会全体が圧力鍋のようだ。不満というエネルギーが、閉じられた場所で膨れに膨れあがっている。ほんの小さなきっかけで、思いがけない弾け方をする。他人を攻撃する事が自分を守る方法だと覚えたら、責めたり攻撃する事が自己主張だと勘違いもする。誰かを低める事で自分が強くなったと錯覚してしまう。それが快感になってしまったら、もう心の中で、花は咲かない。咲いていた花も枯れ、やがて砂漠のように潤いをなくしていくのだろう。
久しぶりに開いた「花さき山」の物語の優しさにしみじみと浸った。道に迷って山奥へ入った少女のあやは、いちめんに咲き乱れる花を見る。山姥はあやにその花が咲くわけを語り始める。「じぶんのことよりひとのことをおもって、涙をいっぱいためて辛抱すると、そのやさしさとけなげさが、こうして花になってさきだすのだ……やさしいことをすれば花がさく。いのちをかけてすれば山がうまれる。うそではない、ほんとうのことだ」村に帰ったあやは、山姥の話をするけれど、誰にも信じてもらえない。一人で探しに行くが、二度と花さき山には辿り着けない。だが、あやは時々、「あ、今、花さき山でおらの花が咲いているな」そう思う事があった。
 花さき山は存在するだろう、人の心の中に。悲観する出来事は多いが、それ以上に、世の中は見えない善意の積み重ねで支えられている。人は人を思いやるし、辛抱もしている。自分を捨て他人の為に行動する人が、身近にも何人かいる。
 先日、所用で出かけた公民館で、一年ぶりの懐かしい声を聞いた。振り返ると「佐倉平和のつどい」のIさんだった。毎年、この時期になると、街でばったり彼と出会う。八月の反戦行事の準備に飛び回っておられるからだろう。「来て下さいよ」と差し出されたチラシ。「八月十七日から佐倉ミレニアムセンターで開催」とあった。Iさんの穏やかな笑顔のむこうにも、心の花は咲いていた。
   

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